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2009/01/25

■節子への挽歌511:生命を支える生きがい

「母が亡くなったら、後を追うように、父が4か月後に亡くなりました」
昨日、ある集まりで会った人から聞いた話です。
おそらくご両親は70代だったのだろうと思います。
たぶんとても幸せなご夫婦だったのでしょう。
そういう話は時々聞くのですが、いつも感ずるのは若干の羨望です。

私たちは愛し合っていることにおいては、それなりの自負がありました。
しかし、もしそうであれば、なぜ伴侶を失ってまでものめのめと生き続けられるのか。
時々、そう思うことがあります。
実は自分が伴侶を見送るという体験をする以前には、妻を見送った人が仕事をしている姿がどうにも理解できなかったのです。
自分ならきっと仕事などできなくなり、社会への関心も失ってしまうだろうと思っていたからです。

ところが節子を見送って1年半近く経ちますが、私もまた活動を再開しだしました。
幸か不幸か、私もまた伴侶のいない「半身を削がれた」人生に慣れてきているのかもしれません。
もっともまだ1年半弱ですので、これからどうなるかはわかりません。
私が部屋で静かにしていると、むすめが時々、「生きている?」と声をかけるのですが、彼女たちも少し気にしているのかもしれません。

伴侶を失うと、やはり「生きがい」が大きく失われることは事実です。
「生きがい」は、まさに生命の支えですから、生きる基盤が弱くなるといっていいかもしれません。
幸か不幸か私の場合は、2人の娘がまだシングルです。
ですから私の親としての使命が残っているわけです。
私がたぶん生き続けているのは、「ケアすべき娘たち」がいたからです。
しかし、いずれ彼女たちはいなくなります。

伴侶を失って、なお生きる定めならば、やはり「生きがい」の補強が必要なのでしょう。
だから活動を再開するという意識が作動しているのかもしれません。
生命は、それがたとえ自分の生命であっても、勝手に操作することはできません。
節子が、それをしっかりと示してくれました。

しかし、欲を言えば、節子も私も後10年生きて、一緒に人生を終わりたかったと思います。

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妻への挽歌03」カテゴリの記事

コメント

お久しぶりです。

時々は読ませていただいてました。お気持ち、よく分かります。私は妻が他界してから5年経ちますから、自分の半身が失われたような感覚もいくらか和らいできましたが、テレビで同年代のご夫婦の暮らしぶりなんかを見ると、心のどこかに羨望のような感情を覚えます。

我家にも「ケアすべき子供たち」が居ます。彼らがいなかったら、とっくに仕事も辞めていたでしょう。もっとも最近では、「ケア」してるのかされてるのか、どっちだろうと思う事もあります。

妻がいたらしなかったであろう自分探しを、今からしなくてはいけません。思いもかけなかった事です。

投稿: ロビタ | 2009/01/25 23:24

ロピタさん
ありがとうございます。

私にとっても、ほんとうに「思いもかけなかった事」です。
いまだ素直に受け容れられない自分に時々気づきます。

投稿: 佐藤修 | 2009/01/26 07:15

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