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2009/01/22

■時評をさぼっている言い訳

時々、時評を書く意欲が消えてしまうことがあるのですが、この1週間、まさにそうで、何を見ても聴いても、まあ勝手にやったらいいんじゃないのと思ってしまうようになっています。
オバマのスピーチに世間は沸いていますが、20分のスピーチを聴いても心が躍動しません。
たしかに久しぶりにスピーチらしいスピーチのような気もしますが、なんだか私の心が麻痺してしまっているのです。
スピーチの一方で、ガザの惨劇は続き、アフガンやイラクの情勢は変化の兆しを感じられないのが、その理由かもしれません。
日本でも、政府や財界が言葉を並べ立てていますが、現実が変わる兆しは感じられません。
現実を変えているのは、当事者と当事者に繋がる人たちなのです。
閣僚たちの視線は、そうした現場には向いていません。

言説の時代は終わったといわれています。
大きな物語の時代も終わった、これからはローカルな身の丈にあった物語だという人もいます。
逆に言葉が現実を超えて、新しい世界を創りだしていくといっている人もいます。
いずれにも共感しますが、だからなんだとも思います。
いささか「うつ」状態なのかもしれません。

オバマのスピーチに世界は大騒ぎです。
あんなに大盤振る舞いして大丈夫なのでしょうか。
世界は本当に変わっていくのでしょうか。
そうあってほしいものですが、何だか方向は全く変わっていないような気がしてなりません。

すみません、無意味なことを書いてしまいました。
明日から少しまた書き出します。

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