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2009/01/04

■節子への挽歌490:やはりどうも前とは違います

節子
昨年はお正月の感覚など持てませんでしたが、
今年は一応、お飾りもつけ、おせちも食べて、初詣にも行き、年始にも行き、お客様も来てくれました。
一応、人並みにお正月なのです。
しかし、どうも感じが違います。
私だけではなく、見ているとむすめたちもちょっと違うお正月のようです。

昨日はむすめたちが付き合ってくれて、湯島のオフィスに車で行ってきました。
節子が元気だったころは、年明けに節子と一緒に湯島に行くのが恒例行事でした。
年末は忙しかったので、年初にオフィスの掃除に行ったのです。
それを知っているむすめたちが、今年は一緒に行ってくれたのです。
しかしやはり節子と行くのとは違って、何となく仕事に行くという感じなのです。
節子と一緒の時は、たとえ掃除のためでも、気持ちがとても楽しかったのですが。

今日はお客様がありました。
節子がいたらこれもまただいぶ状況は違ったでしょう。
話は盛り上がるのですが、盛り上がれば盛り上がるほど、どうも心がついていけないのです。
やはりどこか違います。
うっかりしてお土産を渡すのも忘れてしまいました。
節子ならばそんなことはありえないのですが。

子の神様に、むすめと一緒に初詣に行きました。
むすめが気をつかってくれて、付き合ってくれたのでしょうが、やはりどうも違うのです。
節子であれば、寄り道をし、甘酒を飲んで、無駄な足取りが多いのですが、むすめと2人だと最短コースです。
快晴だったので、子の神様の高台から富士山がよく見えましたが、
これもどうもいつものように感激できませんでした。
帰りに近くの森谷さんに会って立ち話をしましたが、何かが違います。

形は同じなのに、どうもみんなどこか違うのです。
考えてみると、私の行動のほとんどすべてが、最近はすべて節子と一緒だったのです。
どこに行くのも、何をするのも、一緒でした。
だから同じことをしていても、どうもどこか違う気がするのでしょう。
しかし、これからずっとこうなのでしょうね。
しかもむすめたちが付き合ってくれるのも、そう長くは続かないでしょう。

今年のお正月は手持ち無沙汰なのも気になります。
もともと私たち夫婦はテレビはあまり見ませんでしたが、
実感としてはテレビをゆっくり見る暇がないほど、お正月は何かをしていました。
しかし、節子がいなくなったいま、することがないのです。
これまで一体何をしていたのでしょうか。
それさえ思い出せません。
年賀状や年賀メールをやめたせいかもしれませんが、どうもそれだけではないような気がします。

そんなこんなで、静かで気持ちのいい年明けだったのですが、どうも手持ち無沙汰です。

節子
やはり君がいないと退屈ですね。
明日はオフィスに行こうと思います。
誰かがきっと来るでしょうから。
不意に節子がやってくることもないとはいえませんし。

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