■節子への挽歌497:幸せは失った時にしか気がつかない
節子
寒さが厳しくなってきましたが、昨日からまた天気が回復し、青空が続いています。
今日は3連休の真ん中でしたが、どこにも行かず自宅に引きこもっていました。
娘が風邪でダウンしてしまったのと、私もちょっと風邪の予兆を感じているからです。
節子がいなくなってから、風邪を引かないように注意しています。
看病してくれる節子がいないのでは、風邪はひきたくありません。
それまでは年始の風邪は恒例行事だったのですが。
今朝は快晴で、気温は下がりましたが、ガラス越しの日差しのなかにいるととても快適でした。
最近の習慣で、午前中の1時間はそこで読書です。
今日は「山口組概論」を読みました。
読書の合間に何気なく外を眺めていたら、わずかに見える手賀沼の湖面が、日差しを受けてきらきらと輝いていました。
この風景は節子が好きだったのを思い出しました。
見ているとまぶしいほどで、とても心があたたかくなる風景です。
ところが、見ているうちにだんだんとさびしさが強くなってきてしまいました。
以前は元気をもらえた風景なのに、今では元気を吸い取られそうです。
節子がいなくなってから、同じ風景が全く正反対の意味になってきたことはたくさんなります。
本当に不思議です。
節子がいなくなっただけで、こんなにも世界は変わるものかと思うほどです。
世界は本当に自分の心の鏡です。
そういえば、3連休さえも意味が全く変わってしまいました。
昔は3連休ならば節子と一緒に必ず何か計画を立てました。
ところがいまは計画など全く立てる気になりません。
自宅で無為に過ごすことは、寂しさを感ずる時間が増えることでしかないのですが、無為にしか過ごせなくなったのです。
屋上に行って手賀沼の写真を撮りました。

残念ながら乱反射する情景は私の腕では写せませんでしたが、こんななんでもない風景さえもとても幸せな風景だったのだと改めて思いました。
私たちの周りにはきっとたくさんの「幸せな風景」があるのです。
しかし、その中にいるときにはそれに気づかない。
言い換えれば、「幸せは失った時にしか気がつかない」のかもしれません。
だとしたら、いまもなお私は幸せなのでしょう。
いつかまた、いまの毎日が幸せだったことに気づくのかもしれません。
今日はちょっと「哲学的な1日」をすごしました。
最近、私はかなり「哲学者」なのです。
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