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2009/01/01

■生命を支えているのは「希望」と「信念」

今年最初のブログ記事は、挽歌編と時評編の統合版です。

E.フロムは「希望の革命」の中で、こう書いています。

希望が失われたら、生命は事実上あるいは潜在的に終りを告げたことになる。
希望は生命の構造および人間精神の力学の本質的要素なのだ。
それは生命の構造のもう一つの要素、すなわち信念と密接に結びついている。
それはまだ証明されていないものを信じることである。 
「まだ証明されていないものを信じること」
これは私の信条の一つでもあります。
だとしたら、希望は私の生活信条の一つだったはずです。

節子を送ってから、私の心身から「希望」が抜け出してしまっていました。
昨年の前半までは、希望の抜けた存在だったのかもしれません。
フロムに言わせたら、生命の抜け殻です。
希望ももたない抜け殻に、果たして時評する資格があるのか、これは大きな疑問です。
そして、時評している自分の中に、希望があることに気づいたのです。
社会との関わりのなかで、見えなくなっていた自分が少し見えてきました。
心身に「希望」が戻ってきたのは、昨年の11月頃からです。

ホームページの「新しい年のはじまりに」にも書きましたが、
今年を再び「希望の年」としました。
節子との別れを体験した2年前と同じです。
その時もそうでしたが、「希望」を見失っていたからこそ、「希望」にこだわりました。
しかし、「希望」とはなにかについての何も考えていなかったのが2年前です。
すでに、その時には私の思考力は極度に萎えていたのです。

フロムは同じ本で、カフカの『審判』の中に出てくる挿話を紹介しています。
有名な挿話なので、ご存知の方も多いと思いますが、概略を引用させてもらいます。

ある男が天国に入る門の所へやってきて、入れてほしいと門番に頼みました。
門番は、今はだめだと言います。
男は許可があるまで待ったほうがいいだろうと思い、待つことにします。
しかし門番はなかなか許可を出してくれません。
男は坐って何日も何年も待ちつづけます。
門はいつも開かれているのですが、門番に頼んでもいつもまだだめだと言われるのです。
この長い年月の問、男はほとんど絶え間なしに門番を観察し、ついには毛皮の襟についた蚤までわかるようになります。
それでも門番は許可をくれません。
とうとう彼は年をとって死にそうになってしまいます。
諦めた彼は門番にたずねます。
「こんなに長い間に、私のほかに誰も入れてくれと言ってこなかったのは、どうしてですか」。門番は答えます。
「お前のほかには誰もこの門から入ることはできないんだ。この門はお前の門と決まっていたんだからね。さあ、そろそろ閉めるとするか」 
もしこの挿話を2年前に思い出していたら、節子を守ってやれたかもしれません。
自分の愚かさをいくら悔やんでも悔やみきれませんが、節子への懺悔も含めて、今年は「希望」を心にしっかりと刻んでいこうと思っています。

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