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2009/01/21

■節子への挽歌507:エラン・ヴィタール

昨日は「死」について書きましたので、気分を変えるために今日は「生」です。

「エラン・ヴィタール」
何だかとてもいい響きの言葉です。
フランスの哲学者ベルグソンは学生時代に挑戦しましたが、消化できませんでした。
しかし、その著作はいずれも魅力的です。
「エラン・ヴィタール」は、そのベルグソンの「創造的進化」に出てくる言葉です。
ベルグソンは、生命は自らの内に、自らを進化させる躍動的な力を秘めていると考えました
その躍動の源、「生の躍動」を「エラン・ヴィタール」と名づけたのです。

生命とは不断に変化するものです。
それも自分で変化する。
荒っぽく言えば、それが「創造的進化」というわけです。
ダーウィンが言うように、外部からの働きかけで淘汰され進化するのではなく、自らのエラン・ヴィタールで進化するのです。
そうやって絶えず躍動し続けているのが生命なのです。
ある視点で見ると、そこに「進化」と呼んだほうがいい躍動があるのでしょう。
しかし、「進化」などという発想は、進歩主義の枠の中での発想でしかありません。

前にも書いたように、生命は時空間を超えてつながっています。
そう考えれば、進化もまた、そうした「大きな生命体」の状況の一つでしかありません。
ダーウィンの進化論は私には全く無意味で退屈なのですが、エラン・ヴィタールの考え方は魅力があります。
それに響きがいいです。
そう思う人が多いのか、この言葉には時々出会いますが、私はその意味を充分に咀嚼できていません。
ですから勝手な使い方になっていると思います。

その勝手な使い方によれば、エラン・ヴィタールが、個々の人間を創りだすとも考えられるわけです。
つまり、大きな生命体を分節してしまうわけです。
それが私であり、節子であるわけです。
そう考えると、私と節子の40年は、2つのエラン・ヴィタールの躍動の一瞬だったのかもしれません。
そして、節子のなかに在ったエラン・ヴィタールの炎が、ある時に「進化」して、彼岸に飛躍した。
なんだかちょっとロマンティックではあります。
さて私の中に在る、エラン・ヴィタールの次の躍動はいつでしょうか。

死もまた生の躍動の一つの現われと考えれば、死生観は大きく変わります。
しかし、それにしてもやはり「死」と言う文字の侘しい呪縛からは離れられないのが現実です。

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