■節子への挽歌512:ケアの本質は「生きることの意味」の確認
昨日、「ケアすべき娘たち」がいると書きました。
「ケアしてくれる娘たち」と書くべきではないかと言う人がいるかもしれません。
この挽歌を読んだら、娘もそういうかもしれません。
しかし、ここは「ケアすべき娘たち」で正しいのです。
ミルトン・メイヤロフの「ケアの本質」という本があります。
この本のおかげで、私はケアという言葉の意味を深く考えるようになりました。
そして、コムケア活動に取り組む気になったのです。
その本に、こんな言葉が出てきます。
他の人々をケアすることを通して、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きているのである。メイヤロフは、ケアの本質とは「生きることの意味」を確認することだといいます。
誰か(何か)をケアすることによって、人は自分の生の意味を、生きている実感を獲得する、というのです。
一時期、流行した「アイデンティティ」という言葉がありますが、アイデンティティもまた他人との関わりの中で成り立つ言葉です。
そのアイデンティティを確立するためには、ケアの対象になる誰か、もしくは何かが必要なのです。
自分一人でアイデンティティを確立することはできませんし、また自分一人で生きることもできません。
メイヤロフが書いているように、私たちは「ケアを通しての自己実現」できる存在なのです。
ケアは一方的な行為を意味するのではなく、双方的な関係を意味する行為なのです。
節子と一緒に、ある人をお見舞いに行った時に出合ったことですが、交通事故で意識がなくなったまま入院している孫のところに毎日やってきて世話をしているおばあさんがいました。
彼女にとっては、孫のケアが自分の生きる証であり、自分の生きがいなのだと、その時に節子と話したことを思い出します。
「ケアの対象を欠いた状態は、人生における最大の苦痛である」と言っている人もいますが、ケアするという行為は、それほどに人間にとって大切な行為なのです。
子どものいない夫婦が、ペットを飼う心理もこのことから説明できますし、ドメスティックバイオレンスもその視点で考えるとよく見えてきます。
先日、自分の子どもの点滴に腐敗水を混入した母親の事件がありましたが、周囲の関心を引くため子どもに意図的に危害を加える「代理ミュンヒハウゼン症候群」の疑いがあると報道されていました。
まさにこれは「ケア願望」が引き起こした悲劇かもしれません。
人は誰かのためにケアするのでなく、自らのためにケアするのです。
私にとっては、その一番の対象が、節子でした。
節子は私にとって生きる意味を与えてくれる存在だったと何回か書きましたが、これがその一つの意味なのです。
ちなみに、昨日の挽歌にロビタさんがコメントをくれましたが、ロビタさんも同じ体験をされているようです。
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