■節子への挽歌493:キスケの従者が汗をかいていました
昨日の挽歌に節子にお願いを書いたのですが、
なんと節子を守っているキスケの従者がまた汗をかいていました。
節子が示した「お印」でしょうか。
「また」と書きましたが、実は今年初めにも一度起こったのです。
わが家の仏壇は、中心に手作りの大日如来がいますが、
その横に節子を守っているキスケ3人組がいます。
汗をかいていたのは、キスケの両側の従者だったそうです。
ユカも確認していますので、間違いない事実です。
仏壇の中には水分を発散させるものはなかったそうですし、他のところには異常はなかったそうです。
なぜキスケの従者たちが汗をかいていたのか、謎でした。
ところがそれがまた今朝、起こったのです。
どう考えるべきでしょうか。
古今東西を問わず、世界にはたくさんの「奇跡」が伝えられています。
ルルドの奇跡もありますし、空海の奇跡もあります。
最近でもいろいろとありますが、奇跡とは「起こすもの」ではなく「感ずるもの」なのかもしれません。
同じ風景を見ても、ある思いを持った人にとっては、とても不思議な意味を持つ現象と受け止められるのです。
節子がいなくなってから、私はさまざまな「奇跡」を感じますが、たぶん他の人にとっては気づきもしなければ、気づいても無意味なことと思うでしょう。
まあそんなものです。
キスケの従者の汗も、普通なら見過ごします。
なにしろとても小さいですから、私には言われても、そうかなと思う程度です。
昨年、篠栗大日寺の庄崎良清さんのところに行った時に、加野さんが言った言葉を思い出します。
「佐藤さん、事実かどうかよりも、あなたがどう受けとるかが大切なのですよ」私もそう思います。
今日はとても雲の多い朝でしたが、
この挽歌を書きおえたら、太陽が見えてきました。
私の部屋の窓がサッと明るくなったのです。
それさえも節子のメッセージだと思えなくもありません。
私たちは、無数の「奇跡」がとりかこまれているのかもしれません。
それに気づくかどうか、それは自分自身の問題かもしれません。
そんな気がしてきました。
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