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2009/01/28

■節子への挽歌514:無私:selflessness

メイヤロフの「ケア観」を一昨日、書きましたが、メイヤロフのキーワードの一つに「無私」というのがあります。
「無私」と言うと、仏教用語かと思いがちですが、仏教の根本は「無我」にあります。
しかし、日本では「無我の思想」はあまり定着せずに、むしろ「無私」が目指されました。そのため、日本の仏教は「無私の仏教」だと言う人もいます。
たしかに、空海にしろ道元にしろ、滅私無私の心境を目指していました。
しかし、メイヤロフのいう「無私」はそれとは別の意味ですが、私にはとてもなじめます。

メイヤロフによれば、無私(selflessness)とは、「純粋に関心を持ったものに心ひかれること、すなわち、より自分自身に近づくことができる」ことだといいます。
そして、「このような無私の状態とは、最高の覚醒、自己と相手に対する豊かな感受性、そして自分独自の力を十分に活用することを意味する」というのです。

何かに夢中になった時のことを「我を忘れて」といいますが、その状態を「無私」と言っているように、私は受け止めています。
ケアの対象が自分以上に自分になる、自分と一体化する、そのひと(こと)のためであれば、自分のすべてを投げ出すことに何の抵抗もなくなる、自分の問題として考えるようになる、まあそんなところでしょうか。
私の中途半端な理解なので間違っているかもしれませんが、私自身はメイヤロフの「無私」をそう理解しています。
そして、常にそれを意識して生きているつもりです。

「相手の立場になって考える」という言葉もありますが、それとはたぶん「似て非なる」ものではないかと思います。
「相手の立場になって考える」のはあくまでも理性の次元です。
しかし、相手と同一化するのは理性や意思を超えた感性や心身の話なのです。
したがって、時に「理性」のレベルでは、その人(こと)のためにならないようなことをしてしまうことも起こりうるのです。

節子と私の関係は、メイヤロフのいう「無私」の関係でした。
夫婦や親子は、大体においてそうなのだろうと思いますが、それが行き過ぎるとまたおかしなことになります。
私たちも、決して理想的な「無私」関係であったわけではありません。
ですから、よく喧嘩もしましたし、行き違いもありました。
しかし、お互いに心は一つだという思いは強く持っていました。
もう少し時間が与えられれば、お互いに涅槃の心境に達せたのではないかと思えるほどです。

私たちは2人で一人だから、と節子はよく言っていました。
それは、多分に私が自立していないことへの皮肉でもあったのですが、お互いの「信頼関係」はだれにも負けなかったでしょう。
念のためにいえば、たぶん、節子は私が先に逝ったならば私と違って、もっとしっかりと自立した自分の生を実現したでしょう。
こんな挽歌に逃げ込むようなことはしなかったはずです。
女性と男性は、その生において、全く異質の存在だと私は思っています。

それはともかく、お互いに、完全に素直になれて、安心できる人がいることは、どんな苦難に直面しても大丈夫だと思うほど、心強いことです。
昨今、不安が世上に蔓延していますが、それは心を開けるパートナーがいないからです。
パートナーを得るには、まず自らが「無私」になることです。

「無私」になれるほどに愛した節子がいなくなって、
私も、これまであまり体験したことのない「不安」を感じることがあります。
節子がいなくなることで、無になっていた「私」が戻ってきたのかもしれません。

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