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2009/02/09

■節子への挽歌526:節子がいればこそ身軽に生きられた気がします

今日もまた、挽歌編と時評編を絡み合わせながら書きます。

昨日、時評編に「妻(伴侶)がいればこそ、身軽に生きられることを実感として知ってしまった」と書きました。
これはおそらく常識に反します。
家族がいればこそ、慎重にならざるを得ないというのが一般の考えです。
それが真実であることは確かですが、しかし1人よりも2人の方が行動しやすい場合もあります。
節子がいなくなって、私の行動力は間違いなく低下しました。
人は一人では生きていないことを、節子がいなくなってから痛感しています。

私は47歳で会社を辞めました。
次の仕事があったわけではありません。
生き方を変えたかった、ただそれだけです。
多分私一人であったら、決断できなかったように思います。
仕事は一人になってもできますが、生きる基盤である生活には私は全く自信がなかったからです。
辞める時、経済的な心配がなかったわけではありません。
しかし、節子と一緒に汗と知恵を出したら、生活費くらいはどうにかなるだろうと思っていました。
新聞配達を2人ですることも考えていました。

一人だとお金がないと不安ですが、不安を分かち合える人がいれば、お金はなくても立ち向かえるのではないかと思います。
現実を知らない甘い発想だといわれそうですが、いざとなれば「仕事がない」といわれる過疎地に行けば、稼ぐ仕事はなくても、生きる仕事はあるはずです。
いま都会では仕事がなくて、住まいまでなくて、困っている人が少なくありませんが、少し発想を変えれば、いろいろな生き方があるように思います。
やはり、発想が甘いでしょうか。

さて時評編的な話はこのくらいにして、挽歌編的話を書きます。

私が生き方を大きく変えたり、お金と無縁な仕事にのめりこんだりしてきたのは、節子の支えがあったからです。
楽観主義の私も、時に不安で眠れない夜もありましたが、その時は隣に節子がいるのが支えでした。
節子が何かをやってくれるわけでもないのですが、いざとなったら助けてくれるという安心感があったのです。
それに、何よりも、私の生き方を全面的に信頼してくれている人がいることはどれほど心強いことか。
それは節子がいなくなった今、よくわかります。

伴侶とは、相手を拘束する存在ではなく、自由度を高める存在ではないかと思います。
少なくとも、節子は私にとって、そういう存在でした。
節子がいなくなったために、最近の私の心身はとても重い気がします。

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