■節子への挽歌524:準備なく発話できることの価値
節子
人は話しながら考えるものだと、私は思っています。
心の中で考えている場合も、心の中にいるたくさんの「自分」が話し合っているように思いますが、最近、「発話」することの大切を感じています。
節子も知っているように、私は話をするのが大好きです。
沈思黙考ということが不得手なのです。
思いを口に出すことで、考えられ動けるようになるというタイプなのです。
最近どうも動きが悪いのは、節子との会話がなくなったからかもしれません。
いろんな人から相談があると、私は必ず節子に話しました。
私自身、何かをやろうと考えると、必ず節子に話しました。
いずれも相談というよりも、ただ話しただけといったほうがいいでしょう。
しかし、それを聞いた節子の反応は私の行動の方向性に大きな影響を与えました。
そしてそれに続く雑談的会話の中から、それにどう取り組めばいいのかの方策が自然と湧くように出てきたのです。
考えてみると、それが今は無いわけです。
私が山のような相談事に対応できてきたのは、もしかしたら節子への「発話」と「雑談」があったからかもしれません。
伴侶を亡くした方から、独り言が多くなったという話をよく聞きます。
私もそうです。
「発話」しても実際には返事はないのですが、発話すると返事が聞こえるのです。
私はそうです。
しかし、まあ日常生活のちょっとしたことであれば、それでいいのですが、ちょっと大きな話になると独り言も結構難しいです。
位牌に向かって語りかけることも、そう簡単ではありません。
無防備に、準備なく発話できる伴侶。
響きあうような夫婦の会話。
もしかしたら、それが私の生きるエネルギーの源だったのかもしれません。
失って初めてわかる「大切なもの」はたくさんあります。
| 固定リンク
「妻への挽歌03」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌600:真実に生きる(2009.04.24)
- ■節子への挽歌599:遍在転生の死生観(2009.04.23)
- ■節子への挽歌598:寄り添う2人(2009.04.22)
- ■節子への挽歌597:美野里町の牡丹(2009.04.21)
コメント