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2009/02/06

■節子への挽歌523:「どんな時も人生には意味がある」

ユダヤ人であるが故に、ナチスによるアウシュビッツ収容所という極限の体験をした精神心理学者のフランクは、「どんな時も人生には意味がある。あなたを必要とする『何か』があり『誰か』がいて、必ずあなたを待っている」と書いています。
彼のこうした考えが、アウシュビッツでの彼を支えたのでしょう。

節子
いろいろと活動を再開したのですが、どうもまだ何かが欠けている感じです。
それが何なのかはよくわかりませんが、やはり「生きている意味」がまだ見えていないからかもしれません。
もちろん「生きている意味」などわからなくても生きてはいけるのですが、そしていろいろと活動もできるのですが、どこかで充実感がないのです。
節子がいてもいなくても、大きな違いはないはずなのですが、どこかに虚しさがあるのです。
節子は私にとって生きる意味を与える存在だったと、書いたり言ったりしてきましたが、その意味は一体なんだったのでしょうか。
今はそれもわからなくなってきました。

フランクルは、「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである」と、著書の中で書いています。
フランクルのように、「私がなすべきこと、使命を実現していくのが人生だ」などとは思いたくないのですが、彼が提示している「態度価値」という考え方は、時々、頭に浮かびます。
「態度価値」とは、ウィキペディアによれば、「人間が運命を受け止める態度によって実現される価値」です。

人生にはさまざまな事件が山積みされています。
うれしい事件もあれば、悲しい辛い事件もあります。
すべての事件には、何がしかの自分の責任もありますが、自分の意志とは無関係に、向こうからやってくる事件も少なくありません。
そうした「与えられた幸運や試練」に対して、どういう態度をとりながら生きるかによって、その人の人生は変わってくるとフランクルは言います。
そして、どんな状況であろうとも、態度価値だけは存在する、というのです。
平たく言えば、どんな状況においても「希望」があるというわけです。

そう考えると、人生から意味が無くなることはありません。
「人生の意味」は、当人が気づくかどうかとは無縁に、当人のすぐ近くに存在しているわけです。
だから、「どんな時も人生には意味がある。あなたを必要とする『何か』があり『誰か』がいて、必ずあなたを待っている」とフランクルは言い切るのです。

頭では理解できますが、「人生の意味」を一人で見つけることに慣れていなかったせいか、どうもうまくいきません。
私を待っている「何か」や「誰か」の候補が、最近、周辺に山積みされだしました。
しかし、どれが私の人生に意味を与えてくれるものか、見極めがつきません。
春を感じるようになってきましたが、春が来る前に、それを見つけたいと思っています。

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妻への挽歌03」カテゴリの記事

コメント

昼間は結構暖かいのですが、夜はまだまだ寒いですね。

人生の意味ですか。荷厄介な問題ですね。

妻が旅立った後しばらくの間、取り憑かれたように同じ境遇の方のサイトやブログを見て歩いた時期がありました。実にたくさんのブログがあるのですが、圧倒的に多くは女性のものです。彼女たちはそこで、最初は悲しみを訴えながら、しばらくすると生活の中の大小の出来事を語りだす。そしてお互いに行き来してコメントを交わし合う。もちろん悲しみが癒えてるわけではなく、折に触れてふと現れるのですが。それに比べて、圧倒的に少ない男性達の多くは、うずくまったように動かない感じがする。

こんなことを言うと、お叱りを被るかも知れませんが、彼女たちにとっては、人生の意味を考えることなど必要ないのではないかと思えてしまうのです。女性は、生そのものではないのか。そんな女性が実は暮らしの根っこを支えていて、男はそれに頼って生きてきた。だから妻を失った男は、うずくまるしかないのではないか。いや、人ごとではない。私自身がそうだから。

連れ合いを亡くされ、長い時間を一人過ごし、たくさんの意味のある仕事をして、一人で人生にオサラバをした、茨木のり子さんのことを少し考えてます。

投稿: ロビタ | 2009/02/06 23:57

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