■「過剰反応社会」
昨日の夕刊の記事から2つの話題です。
時津風部屋の力士暴行死事件の初公判で、前親方は「暴行を指示したことはない」と述べたそうです。
キャノンの大分工場建設に関連して御手洗会長の友人が下請業者などを指示した事件で、鹿島建設側は「キャノン側の意向と理解し尊重せざるを得なかった」と言っているそうです。
いずれも「権力に迎合するための過剰反応」ですが、権力は、本質的に、そうした「過剰反応」で自らを支えています。
多くの場合、過剰反応するほど権力に近づけますから、よほど注意していないと過剰反応が日常化してしまいます。
権力に過剰反応することは、私も身近で結構体験してきました。
過剰反応させるほうが悪いと私はいつも思っていますが、自らに関しては過剰反応しないように注意してきました。
時津風部屋の事件で言えば、「暴行の指示」は言葉で行われなくても、指示がなかったとはいえません。
言葉などは、指示の一部であるのが日本の文化です。
とりわけ「言葉の少ない相撲界」では、すべてが過剰反応で成り立っているともいえます。
鹿島の事例は、3人が見事に「権力迎合文化」に悪乗りしています。
御手洗会長は、そうした権力支配ではすでにいろいろと不正が取りざたされている人ですが、だからこそ大久保被告は利用できたのでしょうし、鹿島も信じてしまったのでしょう。
悪い人には悪い人と悪事が集まるものです。
そして権力もまた集まってくるものです。
こうした事件は、毎日の新聞をよく読んでいると、本当に多いように思います。
その背景には、思考停止する生き方の広がりを感じます。
過剰反応は権力迎合に限ったわけではありません。
広義では権力にもつながっているのかもしれませんが、その広がりは広範囲です。
たとえば、弱者救済や顧客サービスのための過剰反応も少なくありません。
最近は少なくなりましたが、専門店などでの過剰対応で買う気をなくすこともありますし、押し付け的な弱者支援が行われることもあります。
企業やサービス機関などへの電話で、相手があまりに丁重すぎて説明過剰な体験も時々します。
まさにマニュアル通りにやっていると感じますが、遮断するのも申し訳なく思い、当方が気兼ねをしてしまうという逆サービスが生じることもあります。
さらに、日常生活でもないわけではありません。
「過剰反応社会」
そこから抜け出るのはよほどしっかりした自分を持つ必要があります。
私もまた「過剰反応」しないようにしたいですが、その反動で、「過少反応」になっていなければいいのだがと、いささか心配です。
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