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2009/02/16

■節子への挽歌533:一期一会

節子
最近、「老い」を感ずることが多くなりました。
前にも書きましたが、家の近くのなだらかな坂で息が切れます。
それに以前のように気楽に動けずに、行動する前に少し考えてしまうようになりました。
にもかかわらず、最近また、いろいろなことを引き受けだしてしまっています。
それも勝手に申し出て引き受けてしまうこともあります。
節子がいたら、相変わらずねと笑うでしょう。

今日、坂を上りながら、果たして大丈夫だろうかと、ふと思ってしまいました。
いずれをとってもいい加減にできるようなテーマではありません。
まあ、私のことですから、かなりいい加減ではあるのですが、いつもそれなりの覚悟はするのです。
いざとなったら、それなりのがんばりをするのが、一応、私の文化なのです。
がんばっていると、必ず誰かが手を貸してくれます。

しかし、最近、時々、先のことを考えて不安になります。
先のことを考えるのは「老い」の始まりです。
先の時間が無限ではないということへの心配ですから。
若いころは、先のことなど考えずに、まっすぐ前を見て生きていました。
いえ、節子が病気になって、手術をするまでは、私には先しか見えませんでした。
それも無限の時間のある「先」です。
おかしな言い方ですが、「来世」までが私の視野にはありました。
今生で完結する必要などない、というのが私の意識でした。
友人は冗談だと思っているようですが、私にとっては確信でした。
ですから私の時間軸は、無限に近くゆっくりしていました。

しかし、節子の手術、そしてその後の一緒の生活。
それが私の意識を大きく変えました。
今この時点での時間の大切さが、実感としてわかってきました。
節子が好きだった「一期一会」です。
私には、それまでほとんど関心のない言葉でした。
いつでも、そしてまた、会えるではないか。人はすべてつながっているのだから。
人が会うなどということは瑣末なことでしかない、と私はどこかで思っていました。
そして、事実、不思議なことですが、会うべき人には会えました。
電車の中で、街の中で、そして会いたくなる頃に不思議にやってくる。

それなのに、この1年半、節子に会えなくなりました。
来世では会えるかもしれませんが、時々、無性に今生で会いたくなります。
でも会えない。
節子のように、一期一会を大事にしてこなかった罰を与えられているのでしょうか。。

先のことを考え出すと、人は動けなくなるものです。
最近、そのことを痛感しています。
黒沢明の「生きる」の主人公は全く正反対に、残された時間を知ったときから大きな仕事に取り組み成功させました。
その話が以前はとても納得できたのですが、最近は全く理解できなくなってしまいました。
なぜでしょうか。
節子ならきっとその答を教えてくれるでしょう。
節子は私の人生の先生でした、自分では何も話しませんでしたが、私には伝わってきました。
その先生がいない今、先が見えるととても不安になるのです。

老いのせいでしょうか。

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