■お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない
昨日、ボランティアフォーラムTOKYO 2009に参加しました。
お金も大切だけれど、もっと大切なものがあるのではないかというワークショップです。
そこでの話は、挽歌編に書きましたので、よかったら読んでください。
一番大切なのは「愛」。
「愛」と「お金」は同じ類の言葉かもしれないということも、そこに書きました。
今回は挽歌編とワンセットです。
私と一緒にゲストで参加した姜咲知子さんの生き方は見事です。
9月から3か月近い韓国巡礼に出向くのですが、そのためには「仕事も家も邪魔になる」と、会社を退職し、借家契約を解約し、いまは茨城県の八郷の有機農園で住み込みの生活をして、韓国巡礼の準備をしています。
「仕事も家も邪魔になる」生活。
会場にいた契約社員の人たちはどう思ったでしょうか、
姜さんはまだ30代のシングルですから、こうした身軽な生き方ができるのだと思う方がいるかもしれません。
私も数年前まではそう思っていました。
しかし、いまはそう思っていません。
妻(伴侶)がいればこそ、身軽に生きられることを実感として知ってしまったからです。
お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない、という人も少なくありません。
今回も、無所有とか本来無一物とかの言葉がでたのですが、それに対して契約社員の方から、そんな甘くはないのが現実だと指摘されました。
それはよくわかります。
何しろ明日の食事代もなければ、今夜宿泊するところもない状況が起こりえるのですから。
たしかにお金があれば、食事や宿泊の問題は解決できます。
しかし、なぜ毎日、そうした問題に悩まされなければいけないのか、です。
バラバラの生き方の中で、自己責任や自立が基準になってしまえば、いざと言うことを考えるとお金が不可欠になってきます。
しかし、大家族の中で隠居した高齢者はお金がないと生きていけなかったでしょうか。
自分では稼ぐ事のできない乳幼児はどうでしょうか。
そうした人たちは、ほかの家族に支えられてお金などなくても生きていけたのです。
その大家族を地域社会にまで広げた、下町生活は貧しいながらもお互いに支えあって生きてきました。
お金を稼げない人もいたでしょう。
稼げない時期もあったでしょう。
しかし地域共同体の中で、生きていけたのです。
その地域社会を、さらに広げていったらどうでしょうか。
しかし、今の世界はそれとは逆方向に行っています。
大家族は核家族に変えられ、夫婦は支えあうのではなく稼ぎあう関係になり、男女共同参画などという経済主義に汚染されたまま、支え合いの関係は金銭主義の中で競い合いの関係へと変質していきました。
地域社会は、市町村合併という「自治壊し」の動きによって、生活から切り離されていきました。
つまり、「お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない」社会が着々と構築されだしているのです。
そのために、みんな「お金の奴隷」へとならざるを得なくなっているのです。
「お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない」などという幻想をすてなければいけません。
また言葉が走りすぎていますね。
長くなったので、また明日続きを書きます。
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