■節子への挽歌541:白洲正子さんの十一面観音巡礼
節子
一昨日のETV特集は「もう一度会いたかった ~多田富雄、白洲正子の能を書く~」でした。
うっかり忘れてしまっており、最後の30分ほどしか見られませんでした。
それでも、多田さんの思いは伝わってきましたし、いろいろと考えさせられることがありました。
番組中、とても印象になる「言葉」がありました。
それをテーマに、昨日、挽歌を書こうと思っていたのですが、朝、目が覚めて、さて書こうと思ったら、その「言葉」が出てこないのです。
それで、昨日は違う話を書いたのですが、今日になっても思い出せません。
どうも最近は、記憶が危うくなってきています。
もしかしたら、昨日番組を見ていた時に、私もまた幽界を漂っていたのかもしれません。
そんな感じもする30分でした。
番組の最後は、多田さんの新作能「花供養」のダイジェストでした。
昨年12月に白州正子没後10年の節目に、一夜限りで上演された「花供養」は、多田さんは、死者である白洲正子さんに「再会」したいという願いを込めた作品だそうです。
白洲正子さんの名前は、私にとっては、実は節子とつながっているのです。
学生時代から愛読していた雑誌のひとつが、「芸術新潮」でした。
白洲さんは同誌に「十一面観音巡礼」を連載していました。
実は、それにまつわる私の記憶がかなりおかしいのです。
私には、時間が乱気流しているような気がしてなりません。
以前も書きましたが、私は奈良の佐保路が好きでしたが、その起点が法華寺でした。
そこの十一面観音が、私が十一面観音を意識した最初ですが、そこに行ったきっかけは白洲さんの連載記事だったように記憶しています。
そして行き着いたのが渡岸寺の十一面観音。その近くで育った節子。
私が十一面観音に魅せられだしたのは、白州さんのこの連載でした。
白洲さんの文章を読んでいると、観音像ではなく、観音が生きている世界が伝わってきます。
一緒に巡礼した気分になれるのです。
しかもそこには時間や空間を超えた物語が詰まっています。
十一面観音の始まりを知ったのも、若狭のお水送りを知ったのも、この連載でした。
と、実はずっと思い込んでいました。
いえ、いまもそう確信しているのです。
佐保路を節子と歩いた時にも、その話をした記憶があります。
ところが、白洲さんが芸術新潮に「十一面観音巡礼」を連載していたのは、後に出版された本によると、1974年になっています。
私の記憶とちょうど10年、差があるのです。
このことに気づいたのは、節子がいなくなってからです。
ですから佐保路での会話は確認のしようがありません。
どうでもいいような話なのですが、私にとっては実に不思議な話で、もしかしたらそこだけ時間がひずんでいるのではないかと思えてなりません。
多田さんは「花供養」で白洲さんに「再会」したでしょう。
とてもうらやましいです。
私はどうしたら節子に「再会」できるでしょうか。
十一面観音巡礼と白洲正子さんが創りだす時空間のひずみがもう一度発生して、どこかでまた「生身」の節子と会えないものでしょうか。
今度、花屋さんで白椿を見つけたら、それをわが家の大日如来に供えて、時空間のひずみを念じてみようと思っています。
白洲正子さんは、白椿の精といわれているそうですので。
ちなみに、節子と出会ってから法華寺の十一面観音には一度しかお会いしていません。
節子と一緒に行ったはずですが、その記憶も全くありません。
これも私には不思議なことなのです。
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