« ■言説の政治と実体の行政 | トップページ | ■謝罪は自らに向けられた言葉 »

2009/02/26

■節子への挽歌543:「場所なき人々」

伴侶を失うことの最大の辛さは、自らの拠り所の喪失かもしれません。
それは、とりもなおさず、自らの居場所に関わってきます。

最近、「場所なき人々」(displaced persons)が増えています。
世界的にいえば、いわゆる「難民」の増加ですが、国内でも増加の一途です。
一見、しっかりした居場所を持っているように見えても、それがとてももろいものであることが最近見えてきました。
大企業に属していても、いつ職場を追い出されるかわかりません。
職場を追い出されても、家庭があればそこに戻れましたが、そこからも追い出されることさえ起こっています。
こうした現象は、決して他人事でないことを最近痛感しています。

居場所とは必ずしも「物理的空間」を意味しません。
精神の拠り所もまた、居場所に深く関わっています。
場所を失った人にとっての最大の辛さは、「住み慣れた場所で親しい人々の間で暮らすことを否定されること」(齋藤純一)なのです。

私にとっての「住み慣れた場所」は、わが家であり、そこを中心とした地域社会です。
幸いに、私はいまもその住居に娘たちと住んでいます。
これ以上の贅沢はいえたものではないでしょう。
私にとっては、とても暮らしやすく好きな住まいです。
しかし、節子がいなくなってから、そのお気に入りの住まいがどうも違うのです。
何かが欠けているのです。

最近、齋藤純一さんの「政治と複数性」という本を読みました。
「公共性」に関する本なのですが、私の生き方を振り返る意味でとても親しみの持てる本でした。
上述の、「住み慣れた場所で親しい人々の間で暮らすことを否定されること」という言葉は、その本で出会った言葉です。
その箇所を読んだ時、私もまた「場所を剥奪された」のではないかと感じました。
それ以来、ずっと気になっています。

今日、友人がやってきました。
彼の高齢の義母が骨折し、生活が不自由になってしまったのだそうです。
そのため、子どもの誰かが同居して世話するか、施設に入れるかで、子どもたちが話し合っているという話が出ました。
話しながら、何となく「場所なき人々」の話を思い出しました。
人は、歳をとり、いつか「居場所」を失うのでしょうか。

節子は、最後まで「住み慣れた場所で親しい人々の間で暮らすこと」ができました。
しかも、その住み慣れた場所の中心にいたのです。
私には、そのことがとてもうれしいです。
しかし、私自身には、それは果たせぬ夢になってしまいました。

愛する人のいない住み慣れた場所は、時に辛い場所にもなるのです。

|

« ■言説の政治と実体の行政 | トップページ | ■謝罪は自らに向けられた言葉 »

妻への挽歌03」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌543:「場所なき人々」:

« ■言説の政治と実体の行政 | トップページ | ■謝罪は自らに向けられた言葉 »