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2009/02/12

■節子への挽歌529:元気が出たり出なかったり

この挽歌には、私の精神的な不安定さが現われているのではないかと思います。
まさに元気になったり元気がなくなったりしています。
昨秋からかなり安定してきたと自分では認識しているのですが、どうもそう簡単ではないようです。
やはり3年は、いや5年はかかるのでしょうか。
しかし、5年もかかったらむしろそれが常態だということになるでしょうね。

ということを考えていて気づいたのですが、そもそも人間の精神状態は不安定なものなのだということです。
ちょっとしたことに一喜一憂するのは、なにも今に始まったことではなく、子どもの頃も、そして節子と一緒だった頃も、よくあった話です。
でもたぶん、その振れ具合は今とは違っていたような気がします。
それはきっとその振れを安定化させるスタビライザー(安定化装置)があったからです。
子どもの頃は親が、そしてその後は節子が、その役割を果たしていたのかもしれません。

そこから少し話は飛躍し、時評に近づくのですが、
そうしたスタビライザー役がだんだんなくなってきているのが現代の社会なのかもしれません。
そして逆に、安定させるスタビライザーに代わって、
むしろ増幅させるレバレッジ(てこ)が広がっているのかもしれません。
共同体的社会にはスタビライザーがいろいろと組み込まれていますが、
昨今のような金銭優先社会ではレバレッジが仕組まれているというわけです。
ですから、個人も社会も不安定になりやすい。
いささか発想を飛ばしすぎかもしれませんが、そんな気がしてきました。
一昔前までは社会の基本単位は家族でしたが、いまは個人かもしれません。
嫁姑問題でさえ、ある意味でのスタビライザー機能を果たしていたように思います。
自己責任とか自立などといわれると、私のような弱い人間は生きづらくなります。
しかも、いまやその弱さを支えてくれていた節子がいなくなってしまったのですから、社会のレバレッジ作用をもろに受けざるを得ないわけです。

さてスタビライザー役としての節子のことです。
いまから考えると、まさに節子は単純な私の言動をいつも安定させてくれていました。
過剰な喜びや自信には時に冷や水をかけてくれましたし、
不安や自信喪失にはそこから抜け出すきっかけを与えてくれました。
一人で考えているとどんどん思考が過剰になるのが人の弱さです。
なかなか中庸を得ることはできません。
伴侶がいるということは、そういうことだったのだと、最近痛感しています。
伴侶のおかげで、自らを相対化できたのです。
ソクラテスも、松下幸之助もそうだったのでしょう。

そんなわけで、もうしばらくは私の精神状態は不安定を続けそうです。
しかし均(なら)せば、結局は以前と同じなのでしょう。
そのことにも気づきました。
今日は独り言でした。

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