■節子への挽歌537:ハワイのキラウェア火山
海外旅行の話が出たので、テーマを少しそれに移します。
あまり行けませんでしたが、節子は海外旅行が好きでした。
私たちが最初に海外に旅行したのはハワイでした。
しかし新婚旅行でも個人旅行でもありませんでした。
何しろ私たち夫婦はお金にはあまり縁がなかったので、個人で海外などという発想がなかったのです。
にもかかわらず、なぜハワイに夫婦そろって旅行できたのか。
これは以前書いたような気もしますが、懸賞論文のおかげなのです。
日経サイエンスという雑誌で、科学技術に関するエッセーの募集がありました。
半分冗談で、出してみないかと誘ったのです。
節子は新聞への投書が好きでしたので、2人でそれぞれ出そうということになりました。
私は当時それなりに科学技術には関心がありましたので、すぐに書き上げましたが、科学技術など全く無縁の節子は数日かけて書き上げました。
お互いに読みあって、コメントしましたが、
節子のは中学生の作文のようなので、まあ入選するはずがないと思っていました。
数日後、雑誌の編集部から会社に電話がありました。
私への入選の知らせです。
節子も応募していたことも忘れて、自慢の電話を節子に入れました。
なんと節子にも入選の電話があったというのです。
しかも私よりも早く。
ちなみに、事務局はまさか私たちが夫婦だとは気づかなかったのだそうです。
そのご褒美がハワイにキラウェア火山を見に行くツアーだったのです。
10人のツアーでした。
私たち夫婦は例外的な存在でした。
ほかはみんなそれぞれ専門を持ったエンジニアでしたから。
メンバーで一番若かったのが、まだ高校生だった茂木健一郎さんでした。
最年長だったのが、杉本泰治さんです。
杉本さんは、節子の訃報を聞いて、すぐさまわが家まで来てくれました。
キラウェア火山のボルケーノハウスで宿泊しましたが、その夜、同行の中村東大教授のレクチャーがありました。とても豊かな旅でした。
最終日に観光があり、ポリネシアンセンターに行ったら、そこでぱったりと私の大学の同級生家族に会ったという思い出もあります。
まあこれが節子との海外旅行の始まりでした。
その時の溶岩のかけら(たしか「ペレの涙」と言いました)が、どこかに残っているはずです。
いつかその時の記録をきちんと整理しようといいながら、どこかに詰め込んだままです。
そういう点は、私も節子も似ていました
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