■辺見庸とカミユとシジフォス
一昨日のテレビのETV特集でみた、辺見庸さんの話し方が、どうも気になっています。
辺見さんは、現在進みつつある“破局”は、経済だけのものではない。
人間の内面性も崩壊しつつあるのではないか、といいます。
そして、
「奈落の底で人智はどう光るのか、光らないのか、それが早晩試されるだろう」と語ります。
辺見さんの語り口は、静かに迫ってきます。
しかし、共感しながらも、どこかに違和感があります。
以前、読んだエッセーのような、強い波動が伝わってこないのです。
辺見さんは、後半でカミユの「ペスト」に言及します。
大学時代、私が最も感動した小説であり、私の生き方に少なからぬ影響を与えた小説です。
昨年、「異邦人」を読んだ後に読み直しましたが、なぜ学生の頃、あんなに感動したのか、不思議な感じがしたほど、静かに読めました。
「ペスト」のあらすじはこうです。
はじまりは、医師のリウーが階段でつまずいた一匹の死んだねずみでした。
やがて、死者が出はじめ、町はパニックになっていきます。ペストが流行りだしたのです。
町の司祭は、ペストを人間に反省と自覚の機会を与える神の恩寵だと考えます。
しかし、悲惨と苦痛を前にして、何もしないのは「狂人か卑怯者」だと考える医師リウーは、敗北を繰り返しながら、シジフォスのように全力でペストと戦いつづけるのです。
そのリウーに協力したのが、無神論者のタルーでした。
やがて多くの犠牲者を出したペストは、突然潮が退いたように終息します。
しかし、そのとき、タルーは感染し、息を引き取るのです。
そして、残されたリウーのところに、地方で療養中だった妻の死の知らせが届くのです。
こうまとめてしまうといかにも平板ですが、印象的なのはリウーの誠実さなのです。
辺見さんは、番組でもそれを強調していました。
私がこの本から学んだのは、無駄を誠実に生きる生き方と負け戦(いくさ)の価値です。
私が失敗の可能性の大きなプロジェクトが好きなのは、そのせいです。
学生の時読んだ本をまた読んだのですが、最後のほうに、赤線が引いている部分がありました。
赤線を引いたのはずっと覚えていたのですが、予想していた内容ではありませんでした。
その部分を引用します。
リウーには、究極においてタルーが果たして平和を見出したかどうかはわからなかったが、しかし少なくともこの瞬間、自分自身にとってはもう決して平和などありえないであろうこと、同様にまた、息子をもぎとられた母親や、友の死体をうずめた男にとって休戦などは存在しないことだけは、わかっているような気がした。当時私は、この文章に何を感じて線を引いたのでしょうか。
それが全く思い出せませんが、今日突然に、一昨日テレビで感じた辺見さんのイメージと重なっているのに気づきました。
リウー医師も辺見さんも、平和、希望を失ってしまったのではないか。
しかし、誠実に生きるしかない人生に安堵してしまったのではないか。
それは、巨岩を山頂まで運んでは落とされるシジフォスを思わせます。
テレビで見る辺見さんの言動は、まさにシジフォスそのものでした。
それが、今回、鼓舞されなかった理由かもしれません。
ちなみに、
人智が試されているのは、「早晩」どころではなく、もう試され終わったのかもしれない。
そんな気がしてなりません。
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コメント
「辺見さんは、現在進みつつある“破局”は、経済だけのものではない。人間の内面性も崩壊しつつあるのではないか、といいます。
そして、『奈落の底で人智はどう光るのか、光らないのか、それが早晩試されるだろう』と語ります。」
人知を超越して存在する聖なる神の存在を知らず、無神論者の単なる左翼の辺見氏のような人たちがマスコミを支配して、人間の内面性を崩壊させているのです。
人知を超えるいわゆる神の存在を知らずに、ヒトがヒトとして真に生きることはできません。
残念ながら、左翼の人たちの心は頑なで、「豚に真珠」で、この言葉が届きません。
しかし、彼に共感するあなたの言葉を介してならば彼らにこの話が届くかも知れません。
一般法則論
投稿: 一般法則論者 | 2009/02/05 23:27