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2009/02/25

■言説の政治と実体の行政

最近の政治は言説ごっこの様相を強めています。
言説を武器にするマスメディアに依存する政治になっているわけです。
劇場政治という言葉もありますが、派手な劇場演技だけではなく、実体ではなく言説が権力の所在を決めていきます。
そしてその権力を利用しながら、行政の実体が着々と、あるいは遅々と進められていくわけです。

政治は誰のためにあるのかは、そう簡単な話ではありません。
リンカーンを尊敬しているというオバマにとっての「人民」とはだれなのか気になりますが、政治は「人民」の部外者を生み出すことによって、求心力を高めてきました。
その「部外者」を見えなくするのが、言説の政治です。
「公務員改革」は言われだしてもう数十年ですが、実体はむしろ悪化しています。
「言説」と「実体」が反比例の関係にあることは、よくある話です。

政治家の発言を、その都度、取り上げていたら、それだけで政治は何もせずとも話題には事欠かず、いろんな議論が行われるでしょう。
しかし、そうした議論は、実体を覆い隠すだけで、何も変える力にはならないでしょう。
言説がにぎやかになればなるほど、行政は勝手気ままに動けるはずです。

年金の支給額の間違いが判明してもなお、支給実行しない行政官僚に何もできずに手をこまねいている政治家たちの言説とは一体何なのか。
怒りをぶちまけても何ができない言説だけのジャーナリズとは一体何なのか。

政治家の言葉の話題は、退屈でしかありません。
なにかもっと大切なものがあるのではないかと思いますが、自分の知の枠組みでしか事実は見えてこないのです。
事実をきちんと見せてくれるジャーナリズムがいなくなってしまったのでしょうか。
何も議論しない国会審議、何も報道しない報道番組には辟易します。
その背後で、行政は着実に税金を無駄遣いしながら、社会を壊しているような気がしてなりません。

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