■日本の政治にデモクラシーはあるのか
デモクラシーをどう定義するかは、そう自明のことではありませんが、私は「多様な意見が社会を豊かにしていく社会原理」と考えています。
リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」がよく引き出されますが、そのアメリカ政府は、アメリカンネイティブを「人民」と考えずに殺戮していました。
そのアメリカで、黒人の大統領が出現したことの意味は、私自身まだうまく理解できずにいますが、まあ、話をもう少し限定して、日本の政治状況に関していっても、政府が「国民」をどう考えているのかは、関心のあるところです。
今の日本政府は麻生首相に乗っ取られてしまっています。
官僚による傀儡政権としても、個人が乗っ取ってしまうことができる政治体制はどこかに欠陥があります。
政府与党の自民党が選挙タレント集団に成り下がっていなければ、あるいは、ジャーナリズムが大政翼賛会的な存在になっていなければ、どうにかなったのかもしれませんが、今はもう麻生首相は好き勝手をやっていますが、誰も止められません。
どれほどの税金が浪費されるか知れたものではないですし、領土まで外国にあげてしまうことだって、ありえるところがすごいです。
自民党議員が麻生批判をしていますが、批判ではなく行動すれば事態は変わるでしょうが、そうはなりません。
現在の自民党議員は、みんな「小麻生」でしかありません。
デモクラシーは自己修正的過程を内在させているシステムです。
多様な意見による議論で意見が変わっていきます。
同じ意見の人だけではデモクラシーは意味を持ちません。
多様な意見の討議にこそ、社会の豊かさを高める鍵があるというのが、デモクラシーの価値です。
合意形成のための手段ではなく、討議を通して多様性が役割分担しながら社会を豊かにしていきます。
多数決による意思決定は、デモクラシーにとっては瑣末な話です。
ですから、ねじれ国会は価値のあることなのです。
それを否定的に評価するのはファシズム思考につながる発想です。
三分の二条項による再可決もまた、ファシズム思考にほかなりません。
多数派の支配は、「人民」の内部社会でさえ「人民のため」には値しないでしょう。
政治学者の齋藤純一さんは、自己修正機能が作動するデモクラシーの要件として、「非排除性」と「特権化の禁止」をあげています。
アメリカンネイティブを排除したところには、デモクラシーは成り立ちません。
他者のことを考えずに自己を守れる特権者が存在する状況もまた、デモクラシーとしては欠陥があります。
現在の日本はどうでしょうか。
「非排除性」「特権化の禁止」、いずれも成立していません。
ヨーロッパと違い、日本やアメリカでは、「社会的排除」はあまり大きな問題にはなりませんし、特権化にいたっては、麻生首相に象徴されているように、暴走を止める仕組みはありません。
暴走を止める人もいません。同じ体質で発想しているからです。
日本郵政事件や公務員の不正事件、あるいは企業不祥事など、日本のこの数年の動きは、「非排除性」「特権化の禁止」とは逆ベクトルで動いてきました。
つまりデモクラシーを壊してきたのです。
ブラックボックスの中での民営化とか新自由主義とは、そういうことでしょう。
日本人がワーカーホリック的なライフスタイルになり、女性までもが「社会進出」の心地よいスローガンで企業に駆り出されたことで、政治への関心を失い、その一方で政治が一部の人たちに世襲的に独占されてきたのは、それを構想した意思がどこかにあったのではないか、と思いたくなるほど、整合性が取れています。
会社を辞めて以来、テレビで国会中継を見る時間ができましたが、私の周りの人たちは、政治をきちんと監視することはなく、マスコミの情報で床屋談義をする程度です。
まあ、私もそれに近いのですが、これではデモクラシーなどは夢のまた夢です。
ハーバーマスは、正義を目指す政治文化と善を目指す生活文化を区別していますが、せめて生活文化においては「自らが善いと思うこと」を大事にして、汗をかいていかねばいけないと、最近改めて痛感しだしています。
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