■非論理、無論理、超論理
一昨日、「良識と非常識」を話題にしましたが、今日は「非論理、無論理、超論理」です。
岩波新書の「ジャーナリズムの可能性」は私には少し希望を感じさせる本でした。
まだジャーナリズムということにこだわっている人がいるのだという安堵感があったからです。
読みやすい本ですので、喫茶店で珈琲を飲む気分で、読んでもらえるとうれしいです。
その本にこんな文章が出てきます。
小泉式答弁は、合理的説明ができないときの窮余の逃げ口上であり、目くらまし戦法に過ぎない点を重視すべきだった。「非論理、無論理な言い方を論理的に論破するのは難しい」などと言っているだけでは、答弁者の思う壷にはまる。全くそうです。憲法違反の犯罪者ともいうべき小泉元首相を担ぎ上げたのがマスコミですから、まあ「思う壺」に入るのは意図的だったのかもしれませんが、野党もまた同じ壺に入ってしまったように思います。
いささか事情は違いますが、いままた麻生首相に関しても、同じような懸念もあります。
非論理、無論理な発言に対しては、超論理で対応すべきです。
超論理とは、直感です。
論理に呪縛されない人は、実はもっと大きな論理の世界にいます。
小泉元首相は、演技された非論理・無論理だったように思えますので、別だと思いますが、麻生首相はもしかしたら天性の、あるいは育てられた非論理・無論理の人かもしれません。
最近、どうもそんな気がします。
いまこの大きな時代の変わり目に、彼のような人が首相になったのは、意味があるのかもしれません。
そう思って、最近の国政を見みるといろいろと気づくことがあります。
要するに論理合わせが限界に来ているのかもしれません。
フェーズを変えないといけない。
それができるのは、自らの主体性のない道化師です。
つまり、論理を超えないといけないわけです。
それも小賢しくではなく、おおらかに、です。
麻生首相は、大らかに見えますが、どうでしょうか。
それはそうと、この「ジャーナリズムの可能性」はお薦めの本です。
情報産業栄えてジャーナリズム滅び、ジャーナリズム消えて民主主義亡ぶ!と著者は警告を発しています。
そういう危険な時代の戸口に今、われわれは立っている。
良かったらお読みください。
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