■節子への挽歌546:どこが間違っていたのだろうか
久しぶりに真夜中に目が覚めて、眠れなくなりました。
以前はそれが毎日のように続きましたが、最近は月に1~2回程度です。
しかし、時に突然ひとつの問いが頭にうかびます。
「どこが間違っていたのだろうか」
その問いを意識すると、それから頭が冴えてしまって眠れなくなります。
昨夜がそうでした。
目が覚めて、また寝ようとしたら、その問いかけに襲われてしまったのです。
節子をなぜ治してやれなかったのだろうか。
治すと約束していたではないか。
節子は、その私の約束を信じていたはずです。
しかし私は、その約束を果たすために全力を注がなかったのです。
注いでいれば、節子は治ったはずですから。
私の取り組みのどこかに「間違い」があったのです。
いやもしかしたら、発病の前に、私の「間違い」があったのかもしれません。
そう思って考え出すと、たくさんの分岐点に気づきます。
その時々の私の取り組み方は、今から思えば決して誠実ではなかったのです。
私としては、自分がそうなったら取り組むであろう以上のことはしたつもりですが、それはなんの慰めにもなりません。
私にとっては、私自身の不在よりも、節子の不在のほうが、辛いことなのですから、それは当然のことです。
「どこが間違っていたのだろうか」
この問いに対する答えは、山のようにあります。
その答の山が、私の平常心を崩し、後悔の念を引き起こします。
それに対しての言い訳は何の役にもたちません。
頭の中がどんどんと白くなり、広がっていくのを、ただじっと耐えることしか出来ません。
人生には誰しも間違いはあるでしょう。
しかし間違ってはいけないことを間違えてはいけません。
それを犯してしまった罪悪感は拭いようもありません。
ただシジフォスのように、繰り返し責め苦に耐えるだけなのです。
救いは、おそらく節子もまた、私と一緒に、その責め苦に耐えていることです。
だから私も耐えられるのですが。
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