■節子への挽歌575:話し相手がいないと偏屈になりかねません
活動がいろいろと広がっていくほど、節子がいない寂しさがつのります。
話を聴いてもらえないのと、相談に乗ってもらえないからです。
いろいろとやっている割には充実感がありません。
充実感がないと疲労感が強まります。
ふと、なんでこんなことをしているのだろう、と思ってしまうこともあるのです。
最近、時評編が「感情的すぎる」のも、もしかしたら聞き役がいないせいかもしれません。
以前は節子がいつもフィルター役でした。
私のいささか偏った考えを、節子はいつも正面から受け止めてくれました。
人は話しながら考えるものです。
ですから節子と話しながら、私の考えは熟成されていきました。
しかし昨今は熟成される前に、書き込んでしまいますから、後で読むと支離滅裂なことも少なくありません。
それだけならまだいいのですが、どうも一人で考えていると「偏屈」になってしまいます。
最近の時評は、自分でもいささか「偏屈」だと感じています。
注意しなければいけません。
もちろん話し相手がいないわけではありません。
娘たちもいますし、友人知人もよく訪ねてきてくれます。
私も家に引きこもっているわけではないので、人と話す機会はたくさんあります。
しかし、節子のいたころに比べれば、話す量は大幅に減っていますし、完全に無防備に思いを吐き出すことは激減しているでしょう。
私たちは、本当によく話し合いました。
お互いの心情は、心の奥底まで通じていたように思います。
ですから偏屈になりようがありませんでした。
もっとも2人共が「偏屈」になっていた恐れはありますが、まあそれでも自分の考えを相対化する場は多かったように思います。
それがなくなったいま、注意しなければいけません。
和室にある節子の大きな写真をみていると節子の声が聞こえてくるようです。
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