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2009/03/25

■節子への挽歌570:節子を通して、私は世界を愛していたのかもしれません

昨日の続きです。

節子が、私の周りの世界に意味を与えてくれていたのだ、と昨日、書きました。
一般化すれば、人は愛するものによって、世界の意味を与えられるといっていいでしょう。
同じものでも、そこにちょっと意味がこめられると全く違ったものになります。

節子の闘病中に、隣りの高城さんの小さな子どもたちが、折り紙に母親でなければ読めない文字らしきもので、おばちゃんげんきになってね、と書いて、見舞いに来てくれました。
事情を知らない人にとっては、それは単なる紙くずでしかありません。
しかし、節子にとっては、涙が出るくらいうれしいものだったと思います。
その「紙くずのような折り紙」には、「愛」が込められています。

世界に意味を与えるのは、「愛」なのです。
それが時に、「憎しみ」になるかもしれませんが、「憎しみ」もまた「愛」から生まれたものなのです。
愛と憎しみはコインの裏表です。

「愛」が世界に「いのち」を吹き込んでくれる。
そして世界は、生き生きと意味を生み出していくのです。

「愛」は、具体的にいえば、「愛するもの」です。
私の場合は、それが「節子」でした。
人によっては、伴侶ではなく、子どもだったり、あるいは物だったり、記憶やビジョンだったりするかもしれません。
要するに「愛するもの」です。
「愛するもの」こそが、世界に意味を与え、人生をドラマのある喜びに変えてくれるのです。

言い換えれば、節子を通して、私は世界を愛していたといってもいいでしょうか。
節子がいなくなってしまったために、世界への愛が確信できなくなってしまっているのです。
そのため、世界から意味が消え、時間が平板になってしまったのかもしれません。

ここまで書くと、挽歌編ではなく時評編へと論調を変えたくなります。
というのは、昨今の社会の生き辛さは、「愛するもの」をもてなくなってきているからかもしれません。
なぜそうなったか。
それはそうしないと経済成長ができなかったからです。
話が難しくなりそうです。
この続きは、時評編に譲ります。

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