■節子への挽歌562:「あばたもえくぼ」と「もの悲しい感情」
「だめ節子」第4弾を書き出しました。
今回は、金銭感覚のなかった節子を書き出したのですが、どうも「だめ節子」にならないのです。
書いているうちに、金銭感覚がなかったことがとてもいいことだったような内容になってしまうのです。
「あばたもえくぼ」とはよく言ったものです。
だめな部分が、今となってはとても魅力的に見えてくるのです。
節子のすべてが魅力的に思えるのです。
だから、逆にここで書くことのすべてに、きっと「もの悲しい感情」が表れてくるのでしょうね。
先日、ある友人からこんなメールが来ました。
本当に偶然のクリックだったのですが、佐藤さんの妻への挽歌を読ませていただきました。彼女は節子にも何回か会っています。
本当に、そばにいらっしゃるのだと思いました。
ただ、読んでいて、今までに抱いたことのないような複雑な、もの悲しい感情にみまわれ、最後まで読むことができませんでした。
葬儀にも来てくれました。
偶然にネット検索をしていて、私の挽歌に出会ったらどう思うでしょうか。
どの挽歌を読むかによって、印象はかなり違うかもしれませんが、時に「重苦しい雰囲気」を背負い込むことになるのでしょうね。
書いている私自身もそうなのです。
それで少し気分転換に「だめ節子」シリーズを書いてみようと思ったのですが、なかなかうまくいかないものです。
彼女は今日、湯島にやってきました。
いろいろと話しての帰り際に、またポツリと言いました。
挽歌を毎日書かれているのですね。人を元気にするのが私の生き方なのですが、
とてももの悲しい感情に見舞われて、読み続けられませんでした。
この挽歌だけはそれと正反対のことをしているのかもしれません。
もっと読む人を元気にする挽歌にしなければいけませんね。
今日、彼女は私に会って少し元気になったようです。
よかったです。
私も元気になってきている証拠です。
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