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2009/03/30

■「人間として当たり前の判断」

戦時下最大の言論弾圧事件といわれる「横浜事件」の第4次再審申し立ては、またしても有罪か無罪かを判断しない「免訴」になりました。
つまり「無罪」にはしなかったということです。
3次判決では、「実質無罪」を示す証拠が判決で言われていましたが、今回はそれもなかったようです。
新聞によれば、「遺族が今後、改めて請求すれば進められる刑事補償手続きに、無罪かどうかの判断は先送りした形だ」そうですが、遺族にとっては、「無罪」として謝罪されることが最大の関心事だったのだろうと思います。
遺族の一人は、「私たちは親の名誉回復だけを願っていたのではない。司法は人間として当たり前の判断をしてほしい」と話しているそうですが、「人間として当たり前の判断」という言葉に、やりきれない無念さを感じます。

「人間として当たり前の判断」。

「無罪」と思うのであれば、法律的な形式論で責任を回避すべきではありません。
「免訴」などという「お上」の言葉をつかわずに、もっと素直に話せないものでしょうか。

裁判とは何なのかを、いつものことながら考えさせられました。

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