■節子への挽歌551:記憶は脳と環境の相互作用
節子
朝から雨です。
節子がいなくなってからのことですが、雨の日は胸が痛みます。
痛むというか、とても不安になるのです。
節子に抱きしめてほしい気がします。
そういえば、昨年、福岡の篠栗大日寺に行った時も雨でした。
今日の雨は、あの時を思い出させるような雨です。
あの日、祈祷師の庄崎さんが彼岸にいる節子との橋渡しをしてくれました。
その時の会話がボイスレコーダーに入ったままです。
娘たちに聴かせようと思って録音してきたのですが、なぜか1年近くたちますが、私自身が聴く気になれません。
娘たちも聴きたいとはいいません。
いまもそのレコーダーが目の前に転がっていますが、どうも気が向きません。
家の所々に、節子のものがまだあります。
娘が、時々、片付けようかというのですが、その気になれません。
片付けてしまうと、節子までいなくなってしまうような気がしているのかもしれません。
止まったままの時間の中にいつまでも居続けることは出来ないのかもしれませんが、居続けられるのかもしれないと最近思うようになりました。
ある場所への道順を言葉では説明できないのに、実際にそこにいくと自然に目的地に向かって行けてしまうということはよくあります。
記憶を誘ってくれるものがあれば思い出せなかったことも思い出せるということです。
認知症予防の一つの処方として回想法なるものもあります。
記憶の世界は奥が深く、無意識や前意識など、さまざまな層で構成されているようです。
そして、記憶というのは各人の脳の中で完結しているのではなく、脳と環境の相互作用の中にあるとも言われます。
生命体はすべて文節化されずにつながっているというゾーエの概念に重ねて言えば、記憶もまた本来は分節化されずにつながっているのかもしれません。
しかも時間軸を超えて、すべてが存在しているわけです。
空海の虚空蔵やシュタイナーのアカシックレコードは、そのことを示唆しているのかもしれません。
こんな言い方をすると、いささか非論理的に聞こえるかもしれませんが、三次元的な(あるいは時間軸もいれて四次元的といってもいいですが)感覚では形象化できない記憶が個人の脳の内部で完結していると考えるほうがおかしいでしょう。
脳は、脳外のものやこととふれることで実体化するのです。
だとしたら、節子のものをそのまま残しておくことの意味はあります。
雨や青空もそうです。
すべての環境が節子との記憶を想起させるのは、当然のことでしょう。
彼岸にいる節子ともまた、そうした環境を介して、つながっているのです。
雨を見ながら、ついついそんなことを考えてしまいました。
実はこの2週間、ちょっと時間破産しています。
そんなことを考えている余裕はないのですが、雨を見ていたら、そんなことを思い出してしまいました。
さて、また仕事に戻りましょう。
まあ節子と話すことに比べたら、取るに足らない仕事ではあるのですが。
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