■愛が奪われるとどうなるのか
今日の挽歌編との二部作です。
「死刑になりたくて殺傷事件を起こした」
驚くべき動機を口にする加害者が増えています。
毎年自殺者が3万人を超えている世相とどこかでつながっています。
その世相とはどんなものか。
企業は利益を減らしたくなくて、非正規雇用者を解雇しました。
利益をあげたくて、非正規雇用者を増やしたのと同じ発想です。
そうした思いの根底には、「人の情」が欠落しています。
経済は「情の世界」ではないと思いがちですが、たとえば労働生産性を決めるのも顧客満足を決めるのも「人の情」、つまり「愛」です。
その認識が昨今の企業からは欠落しています。
それが、いまという世相を象徴しています。
世相を覆っているのは、「愛の不在」ではないか。
社会から「愛」がなくなってきている、そんな気がしてなりません。
働く人に対する「愛」があれば、業績が悪くなったからといって、簡単に解雇できません。
商品に対する「愛」があれば、偽装とか安全性軽視など起こるはずもありません。
会社を愛していたら、会社の不正を許してはおけません。
原材料を愛していたら、無駄な廃棄物などだしはしません。
社会のあり方を主導し、私たちのライフスタイルに大きな影響を与えてきた企業や職場から、愛がなくなってきてしまったのは、いつからでしょうか。
温かな第二の家庭とも言われていた職場は、もはや完全な利益社会になってしまいました。
そこを覆っているのは、金銭的損得や勝ち負けの論理です。
愛など考えている余裕はなくなってしまいました。
その文化は企業や職場に留まってはいませんでした。
家庭にも学校にも、地域社会にも友だち関係にも、急速に広がりました。
「愛」がないほうが、生きやすいのではないか、とみんな思い出したのです。
いえ、そう思うように仕向けられたのです。
そして、「愛」が商品になり、教材になったのです。
愛があればこそ、無味乾燥な環境世界が躍動してくるのですが、
愛がなければ単なる生活を閉じ込める壁や床でしかありません。
愛がなければ隣人の悲しさも辛さも読み解けません。
愛がなければ、生きている意味が見えなくなりかねません。
生きようとする元気さえも交換できないかもしれません。
いまの時代の生き辛さは、私たちが「愛」をおろそかにして、あまつさえ「愛」を商品にしてしまったからなのではないか。
そんな気がしてなりません。
もっと「愛」を取り戻さなければいけません。
そうしなければ、自殺者も殺傷事件も、減ることはないでしょう。
まず、家族や隣人を愛することから始めたいものです。
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