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2009/03/06

■小沢さんと二階さんの違いは何なのか

同じ行為をやっても、権力側にいれば問われることなく、権力に楯突く側にいれば過剰に犯罪に仕上げられる・
これは国家のもつ、本性のひとつです。
国家だけではなく、権力を組織原理とする組織であれば、よくある話です。
それはまあいいでしょう。
秩序維持を最優先する組織とはそういうものですから。

陸山会に寄付していた政治団体の後ろに西松建設がいたことなどは、おそらくだれでも知っていたはずです。
小沢さんも二階さんも知っていたでしょう。
ですが、それと手続き論とは違います。
いわゆる「建前」と「実質」の違いです。
そうした「建前」と「実質」のずれは、おそらくほとんどどこにでもあります。

先の戦争の直後、食料不足の中で、米穀の闇取引で飢えをしのがないといけない時に、ある検事は一切の不正行為を家族に禁じたために餓死してしまったという話がありました。
本当かどうか知りませんが。
餓死してまでも守るべき法律はおかしいのです。
もちろん、そうして餓死した人の生き方は否定すべきではありません。
それは個人の生き方の問題ですから。
しかし、法律は、よく読めばかなり解釈の余地があるものです。
しかもその法の適用は、さらに多義的です。
スピード違反の自動車がすべて逮捕されるわけではありません。
時に恣意的に思えるほど、適用側の裁量に任されているのです。
特に日本の社会を支配するのは、西欧のような倫理的な責任原理ではなく、むしろ実用的な抑制原理です。
幅が大きければ大きいほど、抑制効果は発揮できます。
つまり、そうした解釈や運用の「幅」が、権力側、あるいは統治する側にとっては「交渉力」になります。
言い換えれば「利益の源泉」になるのです。
そして、今回はそれが見事に発揮されました。
これが私の今回の事件を知ったときの第一印象でした。
特捜チームが小沢事務所に入っていく風景が何回もテレビで流されましたが、あの種の風景にはいつも権力の卑しさを感じます。
歩き方から、権力をかさに来ている心情が伝わってきます。
そこには人間の表情がありません。
よくまあ当人たちは恥ずかしくないものだといつも思います。

検察の立場でなければ犯罪として罰せられる行為も、検察であればこそ見逃されることもあります。
それがひどすぎるときは、冤罪として罰せられますが、個人が罰せられることはほとんどないでしょう。
検察はいつも組織であって、個人ではないからです。
成功した時だけ、個人の成果になります。
そして有名人になります。
私が一番嫌いなことですが、そんな気がします。
しかし、問い正されるほうは、いつも「個人」です。
しかも一度疑惑の対象になると、その時点で回復不能なダメッジを受けることになります。

とても不思議なのですが、自民党の議員はみんなこう言っています。
「違法ではないがお金は返します」
そういうのであれば、小沢さんの秘書も「違法ではない」と弁護してやればいいのにと私は思いますし、返金する理由は何なのか明確に説明すべきです。
しかしそうしたことは問い正されません。

民主党議員の中にも、前原さんのような隠れ自民党議員がいますので、彼らがたぶん民主党のまとまりを壊していくでしょうが、誰と誰が戦っているのかの基本構造を見誤らないようにしないといけません。
現在の構造的問題の本質が、そこにあるように思います。
よく言われることですが、小沢さんへの嫌疑で誰が得をしているかです。
少なくとも国民ではないように思います。

税金の無駄遣いで、麻生首相こそを告発すべきではなかったかと私は思いますが、まあそれはあまりにも主観的ですね。
しかし国民の被害額は、どちらが大きいかは微妙な気がします。

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