■ベンジャミン・バーバーの市民観
「労働から価値をしぼりとる長い期間が続いたため、民主主義をこっそりと盗まれ、姿が見えなくなっていた市民」
市民社会に関して示唆に富む論考を展開しているベンジャミン・バーバーは、国家と企業の狭間で、市民社会を創出していくためにはどうすればいいかをテーマにした著書「<私たち>の場所」で、こういう表現を使っています。
そして、そうした市民が、会社を退職し、自らのための人生を回復した時に、民主主義はようやく彼らを、その担い手として迎えられるのだというのです。
市民社会の主役になれるのは、経済資本への貢献を期待されている人たちではなく、むしろそうした世界からはもはや「必要とされていない」人たちだというわけです。
この視点に立てば、国家や企業に仕えている人たちは、市民社会の担い手ではないことになります。
逆に、シャドーワークの担い手である主婦(主夫)や企業を退職した(解雇された)人たちこそが市民社会を創出していく可能性を持っているというのです。
私が昔から持っていた思いに重なっています。
そうした思いから、私は安直な「女性の社会進出」論には批判的ですし、最近でいえば「女性活用」論にも違和感を持っています。
子供や学生たちはどうでしょうか。
いまや彼らもまた学校や教育産業に取り込まれてしまい、「経済資本への貢献」メンバーになってしまいました。
若い女性たちは携帯電話とブランドファッションに飼われだしているので、これまた民主主義や市民社会には無縁になってきています。
麻生人気や小泉人気は、そうした人たちが支えているように思います。
まただんだん言葉が走りすぎてきましたので、戻しましょう。
「生涯現役」ということがありますが、以上の視点から言い換えれば「生涯隷属」というような意味あいをもっています。
いささか表現がきついですが、要するに視点を変えるとさまざまなものの意味が反転するということです。
政治に関する最近の世論調査を見て、いつも感ずるのは、この数字の意味は一体何なのだろうかということです。
隷属者の意見と主体性を持った市民の意見とは、多くの場合、対立します。
それを足したところで、何の意味があるのかと思うわけです。
国家や企業を支える存在と社会を支える存在の分断は、どこかで逆転するのでしょうか。
最近の私の人間嫌いは、こうしたところに一因があります。
4月19日に、「NPO活動がはぐくむ市民性」をテーマに討議型フォーラムを開催します。
よかったらご参加ください。
定員がありますので、もし参加いただける場合は私にメールください。
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