■節子への挽歌566:怯えの時代の自由
内山節さんという人がいます。
まだ会ったことはないのですが、彼の書いたものにはほぼ100%共感していました。
その生き方もすばらしく、その実践にも敬意を感じていました。
直接の知り合いではないですが、私の周りにはなぜか内山さんと付き合いのある人が少なくありません。
たぶんいつかお会いできるだろうなと思っていた一人です。
人は会うべき人には、必ず会えることを、私は体験的に実感しています。
内山さんの最近の著作である「怯えの時代」を、若い友人が紹介してくれました。
先週届いていたのですが、昨夜、寝る前に本を開いてみました。
一瞬、心が凍りつきました。
こういう書き出しです。
2006年6月22日。妻が死んだ。ほんの5分前まで心地よさそうな寝息をたてて眠っていたというのに、突然息をとめた。受け入れるしかない現実が私の前で展開していた。この挽歌に突然出会った人の気持ちが少しわかりました。
予期しない言葉は、人の心に深く突き刺さります。
そこから先へと読み進めたのですが、2頁読んだところで、読めなくなりました。
文章はこう続いています。
それから数日が過ぎ、私は自由になった自分を感じた。すべての時間が自分だけのためにある。すべてのことは自分で決めればよい。何もかもが「私」からはじまって「私」で終わるのだ。私だけがここにいる。自由になった私だけが。どこか違うのです。
それは現代人の自由と共通する。
喪失の先に成立する自由。受け入れるしかない現実が生み出した自由。妻の死によってもたらされる現実に、私は怯えることはなかった。私は「また会おうね」と言った。妻は「うん」と言った、と思った。
私が思っていた内山さんの世界と、どこかが違う。
そのため頭が混乱して、その先に読み進めなくなったのです。
朝起きて、読み直しましたが、やはり違和感が残ります。
内山さんらしい文章であり、その内容に異論があるわけではありません。
まだ2頁しか読んでいないので、この後、どのような話が展開されるのかわかりませんが、この2頁で、なんとなく内山さんは私とは違う世界の人だと感じてしまいました。
もしこれも「喪失」だとしたら、そこからどのような「自由」が現れてくるのでしょうか。
愛する人との別れは、人それぞれです。
内山さんの思いなど、私にはわかるはずもありません。
しかし、「また会おうね」「うん」という会話は、内山ご夫妻のすべてを語っているようにも思います。
とても静かであたたかで、それだけに深く長い愛を感じます。
しかし、どうしても「喪失」とか「自由」とかいう言葉に違和感を持つのです。
だからなんだと言われそうですが、このわずか数行の文章は、最近封印していた私の心情をまた開いてしまいそうです。
ちなみに、
妻を失った後の自由感。怯えることのない自分。
私にとっては、理解できない言葉です。
妻を失った怯えと自由の喪失。
これが私の体験感です。
| 固定リンク
「妻への挽歌03」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌600:真実に生きる(2009.04.24)
- ■節子への挽歌599:遍在転生の死生観(2009.04.23)
- ■節子への挽歌598:寄り添う2人(2009.04.22)
- ■節子への挽歌597:美野里町の牡丹(2009.04.21)
コメント