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2009/03/03

■節子への挽歌548:個人の体験は他の人には理解できない

昨日も書いたように、個人の体験は、きわめて個人的なものであり、言葉にはしにくいものです。
おそらくこの挽歌を客観的に読むと、支離滅裂で、気持ちが乱高下しているように感じるでしょう。
私自身、言葉にしてしまうとちょっと違うなと思うこともあります。
できるだけ思いつくままに書くように心がけていますが、
書いているうちに、何を書こうとしたかったのかもわからなくなることもあります。

ところで、「個人の体験はきわめて個人的だ」と書いていて、気づいたことがあります。
節子の体験は節子のものであり、私にもわかっていなかったのではないかということです。
節子の悲しみ、節子のつらさ、節子の幸せ、節子のさびしさ、それは私にはわかりようのないものです。
しかし、なんとなくそれがわかっているような気になっていたのではないか。
そんな気がしてきたのです。
まあ、冷静に考えれば、当然のことなのですが。

他の人の立場になるという姿勢が一番問題なのは、自分の価値観で相手の思いを読み替えてしまうことです。
福祉の世界で、よく起きる悲劇がそこにあります。
とりわけ自己主張しにくい子供たちや高齢者、あるいは障害を持つ人たちは、意識的にせよ無意識にせよ、自らの思いを抑制する傾向があります。
そうした相手の思いを「わかった」ように思うことは、第三者的に見ているとわかるのですが、自分が当事者になってしまうと見えなくなりがちです。
節子との闘病生活の中で、私は節子からそのことをたくさん教えてもらっていたはずですが、それを自覚できたのは節子を見送ってから1年ほどたってからです。
今でも、思い上がっていた自分に、時々、気づいて、呆然とします。

私がこの挽歌を書き続けているのは自分のためなのです。
当初は、自分の鎮魂のためでしたが、最近は書かずにはいられないという贖罪の意識もあります。
こんな挽歌を書いていても、節子は喜ばないかもしれません。
その程度の自覚は私にもあるのですが、どこかに自分だけが節子のことを一番よく知っているという気持ちがあることも事実です。
それがなくなってしまうと、私の支えは瓦解し、この状況を続けられなくなるかもしれません。
まあ、そんなわけで、まだまだ挽歌は書き続けるつもりです。

今日もまた、何を書こうとしていたのかわからなくなりましたが、
要は、個人の体験は他の人には理解できない、ただひとつの体験だということを書きたかったのです。
私の体験と節子の体験も、またそれぞれに違っていたということを受け入れるのは、私にはかなりつらいことだったのですが。
節子が、どう思っていたか、最近少し気になりだしています。

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