■被害者を救うことのない裁判の限界
闇サイト殺人事件の被告3人のうち、2人が死刑、1人が無期懲役になりました。
被害者の母親は「無念さ」を語りました。
母親にとっては、全員の死刑が当然だったのでしょう。
私自身、最近は死刑反対論者ですが、母親の気持ちに共感してしまいます。
被害者の気持ちを鎮めることのない裁判はやはりどこかに問題があります。
もっとも、裁判とは被害者を救うものではありません。
全員が死刑になったところで、母親にとっては娘が戻ってくるわけではありません。
経済犯罪はともかく、それ以外、特に身体を殺傷するような事件の加害者は、実際には「責任」などとりようがないのです。
ですから被害者にとっては、どんな罰を与えようと救われることはありません。
そこに裁判の限界があるわけです。
罪と罰をどう扱うかは、文化によって違います。
キリスト教徒の場合は、罪は神への裏切りですから、罰は贖罪のためのものです。
つまり加害者の倫理的な責任が問われるわけで、裁判は加害者の問題でもあります。
そこでは、加害者の意識や反省は大きな意味を持ちません。
日本の刑法体系も同じですが、日本の文化に裏打ちされた私たちの感情は少し違います。
加害者が心底、反省しているならば、被害者にもまた情状酌量の気持ちが働きます。
ですから、むしろ罰は、再犯防止あるいは類似犯防止の意味合いが強いように思います。
明らかに法の思想と社会の文化は違っています。
ややこしいのは、「再犯防止あるいは類似犯防止」が政治的に悪用されることもあることです。
そのため、「冤罪」が少なくありません。
検察が権力者に使われたり迎合したりするようになりやすいのも、その結果です。
今回の裁判で、母親の気持ちを鎮める方策は何でしょうか。
裁判で示した加害者の言動こそが問題にされなければならないと思います。
人の更生は実際には極めて難しいです。
裁判官や弁護士は安直に「更生」という言葉を使いますが、認識を変える必要があると思います。
それと同時に、こうした事件の裁判で裁かれているのは、単に加害者だけではなく、そうした状況を作り出した関係者もまた裁かれるべきだろうと思います。
類似犯が出てこないような取り組みこそが、真剣に考えられるべき課題です。
裁判制度の限界をもっと真剣に考えるべきでしょう。
そうしたところに向けた司法改革に取り組むべきであって、裁判員制度などのようなばかげたごまかしをやっている時期ではありません。
そのことを今回の裁判の報道を見ていて、改めて感じました。
繰り返しますが、裁判の目的を考え直すべき時期に来ているのです。
問題の本質は、「死刑」かどうかではないはずです。
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