■節子への挽歌568:喪失と自由
妻を失った怯えと自由の喪失。
一昨日の挽歌の最後に書いた、私の体験感です。
「喪失」に関しては、2度ほど書きました。
「対象喪失」では、愛する人との別れは喪失ではないと書きました。
愛が終わることと愛する人と別れることは違います。
「なくなりようのない喪失感」では、
喪失と喪失感との違いについての友人の言葉を紹介しました。
内山さんは、「喪失の先に存在する自由」を問題にします。
そして、現代は「自由を得るために自由を喪失する必要がある」と、その本(「怯えの時代」)で議論を展開していきます。
自由を得るためには、自由を捨てなければいけない、というのです。
この言葉の意味はよくわかりますし、共感できます。
疑問のある方はぜひ同書をお読みください。
E.フロムは消極的自由がファシズムにつながっていることを「自由からの逃走」で示しました。
フロムが「自由への逃走」として評価した積極的自由も、結局は連帯を通して自由の制約につながるといわれます。
自由は、パラドックスを内在させた言葉です。
韓国の法頂師は、無一物になれば、すべてが自分の物になると言っています(ちょっと不正確な紹介ですが)。
所有の概念を捨てれば、すべてがみんなのものになることは自明のことです。
大気も地球も、個人が所有できないがゆえにみんなのものです。
所有と自由とは深くつながっています。
だとすれば、喪失と自由も深くつながっています。
内山さんの「怯えの時代」はわかりやすく現代社会の状況を整理してくれています。
私には異論はないのですが、なぜ最初の2頁に、一昨日の挽歌で紹介した文章を載せたのでしょうか。
おそらく、単に「載せたかった」だけでしょう。
その気持ちもわかるような気がします。
どこかで吐露したい。それが喪失した者の感情です。
内山さんは、妻を失って「自由」を得ましたが、
私は妻を失って、「自由」も失いました。
この2日間、なんとなくその違いを考えていたのですが(風邪でダウンしていたので時間がありました)、失ったり得たりするような「自由」は自由ではないと気がつきました。
それに、節子と出会い、節子を愛した、その時から、自由などなかったのかもしれません。
自由とは制約の同義語だというのが、この2日間の結論です。
全く無意味な2日間の思考だったかもしれません。
節子だったらきっと笑いとばしながら、でも感心してきいてくれるでしょうが。
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