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2009/03/26

■節子への挽歌571;挽歌を書くことの効用

挽歌の読者からメールをもらいました。
私と同じく、数年前に愛する人との別れを体験した人です。

ここのところの佐藤さんの”妻への挽歌”は、また辛そうな表現がなされていますね。
風邪も召されたようで、そのへんも影響しているのかなぁと思ったりしているのですが。

きょうの思い(挽歌569)はまさに私の感じているところにピッタリでした。
何にも感動できないし、世界はまさに灰色です。
私の心情を吐露したところで、何の意味があるのか、と時々思うことがあります。
しかし、こうして同じような思いで彷徨している者がいることを知って、少しでも自分だけではないと思ってくれる人がいるだけでも書く意味があるかもしれません。
それに、こうしたメールには私自身がとても元気づけられます。

昨日、ある人に頼み事をしました。
頼んだ途端に、彼はいいですよ、と快諾してくれました。
私が関わっている、あるNPOの活動支援の話です。
私が頼んだ人は、まだ付き合いだしてから1年も経っていませんし、そんなに何回もあったわけではありません。
感激しました。
今日、早速彼に会いに行きました。
用件が終わった最後に、この挽歌の話になりました。
私の娘よりも若い彼に、私の心情がすべて読まれていることを知っていささか慌てました。
自分でもわかったのですが、赤面していたはずです。
「オープンすぎるほどオープンですね、でもそれを読んで、この人には血が通っていると思って、会いに行ったのです」
彼がそういいました。
そういえば、彼は湯島に来てくれたのです。

この挽歌は、私にも大きな効用を与えてくれているのです。
節子がいろんな人と引き合わせてくれているようで、とてもうれしいです。

最初に書いたメールは、こう続いていました。 

「喪失の先に存在する自由」はよくわかりませんでした。
元々自由そのものがわかりません。
確かに行動は何も制限されなくなりましたが、これが自由だとしたら、私は自由は要りません。
色々な制限があってこそ、少しの自由が欲しくなるような気がします。
もっとも私はその少しの自由も欲しがっていなかったと思います。
 「自由」とはなんだろうか。
実は私も昨年末から、このことが気になって、少し考えています。
E.フロムを読み直したりしたのもそのせいです。

その方は、最後にこう書いています。

お体をお大事に。
心には声を掛けようもないのですが、どうか穏やかにお過ごしください。
はい、お互い様です。

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