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2009/03/27

■節子への挽歌572:春の眩しさは心を乱します

昨日紹介したメールにこんな言葉もありました。

春が近づいてきましたね。
季節の変わり目はやっぱり心が辛くなるような気がします。
そういえば、先日、コメントを書いてくれた田淵さんも書いています。
サクラの開花も間近ですね。
春は周りが明るくなってきますので、それはそれで少し置いてきぼりの感があります。
サクラの花もまぶしすぎるかもしれません。
たしかに、春の眩しさは複雑な気持ちを起こさせます。
せっかく心はずむ春になっても、心はずまない自分の居心地の悪さ。
世界は自らの心の中にあることを思い知らされます。

先日、偶然にですが、テレビで放映されていた「フォーゴットン」のラスト部分を観てしまいました。
以前、観た映画なのですが、子供を失った親たちの記憶が消されるという話です。
愛する人を失った記憶がなくなるとどうなるのか。
これはこの映画のテーマではないのですが、テレビをつけた途端に出てきたのが、そういう会話のシーンでした。

悲しい記憶は消えたほうがいいのか。
いえ、その前に、記憶がなくなれば、人間は生まれ変われるのか。
またそんな意味のない思考の世界に引きずり込まれそうです。

悲しい記憶がなくなれば、悲しさがなくなる。
その映画では、息子を亡くした母親の記憶は結局、消せませんでした。
彼女は悲しい事故を信じずに、息子への愛を大事にし、結局、息子を取り戻します。
なかなかうまく説明できませんが(映画のネタを書いてしまうのはルール違反でしょうから)、母親は悲しさを消すことよりも悲しくても息子への愛を大事にしたのです。
「悲しさから抜け出ること」と「悲しくても愛を守ること」と、どちらを優先するかは、人それぞれです。
人というよりも、愛の関係によるのかもしれません。
私は、悲しさから抜け出るつもりは全くありません。
悲しさと喜びとは同じものだと思っているからです。

ところで、もし記憶がなくなれば生まれ変われるのであれば、
記憶が人間の実体ということになります。
そうであれば、節子の実体は記憶の中にいるわけです。
悲しいのは、さびしいのは、ただ実体としての節子と会話もできず、抱きしめることもできず、喧嘩もできないことだけです。
それ以外のことでは、節子は存在するわけです。
もしかしたら、いつか、映画のように、実体としての節子が戻ってくるかもしれません。
戻る前に、私がたぶん節子のところに行くことになるでしょうが。

春の眩しさは、心を乱します。

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