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2009/03/02

■節子への挽歌547:時間がたつと悲しみの感情は薄れるか

昨日、「時間がたつと遺族の被害感情は薄れる」というタイトルで司法時評を書いたのですが、これを書いたときの気持ちは、むしろ挽歌編を書くときに気持ちでした。
そこにも書いたのですが、愛する人を失った場合、「時間が癒してくれる」などということは決してないのです。
節子を見送って明日で1年半ですが、節子に関していえば、時間さえ止まっているのです。
「時間が忘れさせてくれる」などという人さえいましたが、「忘れること」が一番に避けたいことであることなど、そういう人には思いもよらないことなのでしょう。
昨日、飯島愛さんの「お別れの会」の様子がテレビで放映されていましたが、そこで大竹しのぶさんが「今日はお別れの会となっているけれど、私はお別れなどしないから大丈夫だよ」というようなことを話していました。
まったくその通りなのです。
「言葉」はとても難しいです。

私も節子との別れを体験するまでは、「相手の立場に立って考え行動すること」が大事だとずっと思ってきました。
さまざまなNPO活動に関わらせてもらうときの、それが基本姿勢でした。
いつも、同じ目線で同じ世界で考えたいと思ってきました。
しかし、そんなことが出来ると思うことの傲慢さを、最近は痛感しています。
もちろん「相手の立場に立って考え行動すること」は重要なことですし、今もそういう姿勢を基本にしています。
しかし同時に、決して相手の深い思いにはたどりつけないことを意識しておくことに心がけられるようになりました。
そう思うことで、実は相手のことが今まで以上にわかるような気がしてきました。
同時に、私のことを気遣ってくれる人たちのこともわかるようになってきました。

正直に言えば、以前は、「時間が癒してくれる」などといわれると腹が立ちました。
当事者でもないのに、わかったようなことを言ってほしくないとついつい反発してしまったのです。
実は、そうして「反発」してしまうことこそ、相手と同じく、相手の気持ちや思いを無視していることだと1年ほどたって気がついたのです。
それに関しては、すでに挽歌のどこかで書いたつもりです。

妻を失ってホッとしている人もいるでしょうし、妻の後を追いたいと思っている人もいるでしょう。
まさに同じ現象に見えても、人によってその意味合いは全く別個のものです。
そうしたさまざまな人の思いを、自分の思いで受け止めてしまうことで、世界は見えなくなってしまうものだということを実感したのです。
個人の体験は、きわめて個人的なものであり、言葉にはしにくいものです。
しかし、時間がたてば消えるような悲しみは、悲しみではないのです。
節子を失った悲しみは、私にとっては「初めての悲しみ」だったのだと、最近ようやく気づきました。
そして「悲しみ」を体験すると、人はやっと人の「悲しみ」もわかるものだと気づかされました。
できれば「悲しみ」など体験したくなかったのですが。

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