■節子への挽歌560:失敗するとso-soといって笑ってごまかす節子
だめ節子シリーズその2です。
節子は私と同じで、さまざまな矛盾の塊でした。
慣習や定型的な前例に拘束されることなく、自分の判断を大事にする合理主義者でありながら、奇妙に慣習の形を気にする人でもありました。
どういう時に慣習を重視し、どういう時にそれを無視するか、あんまり私には基準が理解できませんでした。
節子自身もあんまり基準はなかったのかもしれません。
節子の実家の法事に行った時、挨拶の仕方にうるさくて、たとえば上座から挨拶したとか腰が浮きすぎだとか注意されたこともありました。
ですから、最初の頃は私もそれなりに緊張して、節子の実家での法事に出席しました。
ところがです。
次第に自分の判断を大事にする合理主義者へと、節子はどんどん変わってきました。
私の狭い付き合いからの感想ですが、女性はみんなそうのようですが。
それはともかく、節子は私以上に私になり、ついには私を追い越すほどの「形式からの自由主義者」になりました。
節子の実家の先祖の50周忌に出席した時のことです。
最近は田舎の法事も簡素化されてきたので、今回は平服でいいんじゃないかと節子が言い出しました。
しかも、今回は黒のネクタイもいらないよと言うのです。
法事に関しては、節子は私の先生ですから、ついつい私もその気になってっしまいました。
ところが親元についてみると、みんな正装で黒ネクタイなのです。
節子は実家の喪服があったので対応できましたが私はノーネクタイです。
さてどうするか。
私はいいとしても、節子に恥をかかせるわけにはいきません。
車で来ていた義兄に頼んで、ネクタイを買いに行き、何とか間に合わせることが出来ました。
なんだか、忠臣蔵の吉良上野介と浅野内匠頭のような話ですが、節子は慌てることなく、so-so などと意味不明な言葉で笑ってしまっていました。
小心者の私は慌てますが、能天気な節子はそういう時にはお腹をこじらせて笑いのです。
そういう時の節子は、実に魅力的なのですが、浅野内匠頭としては腹立たしくもあるのです。
そういえば、節子はよくso-soと言ってました。
辞書を引いてみたら、「良くも悪くもない、まあ、まずますの」というような意味のようですが、節子は「まあ、いいんじゃないの」というような意味に勝手に使っていたような気がします。
たしかラジオか何かで一度聴いて気にいったのでしょう。
それ以来、勝手に拡大解釈もしくは誤用して、愛用していました。
まあ、so-soですが。
「だめ節子」にさえ魅力を感じてしまうようでは、なかなか「だめ節子」シリーズは難しいですね。
困ったものです。
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