■節子への挽歌586:伴侶とは、自らの心を開いてくれる存在
昨日紹介したメールは、挽歌581「惨めなほど、ひがむこともあります」を読んでのメールだったのですが、同じ記事に、カモミールさんがコメントしてくださいました。
カモミールさんは、とても素直に、自分の気持ちを書いてくださっています。
カモミールさんのコメントをぜひ読んでみてください。
私は何回も何回も読ませてもらいました。
カモミールさんはこう書いています。
ひがむからか、ますますひねくれてくるのが自分でもわかります。とてもリアルに感じます。
人の幸せを願う気持ちも勿論嘘でなく持っているのですが、身近な周囲に対しては素直に思えず、母もますます頑なにひがみっぽくなり・・・の悪循環です。
私も、そうではないとは言い切れません。
感謝と反感は並存するものです。
カモミールさんが書いているように、「悪循環」に陥ってしまうとそこから抜け出すのは難しいのです。
風景が変わってきてしまうからです。
そうした悪循環から抜け出すにはどうしたらいいでしょうか。
私にはまだその妙薬は見つかっていません。
ただ、そうした「思い」を溜め込まないほうがいいということです。
私は、この挽歌でそれを放出しています。
放出しなければいけないのですが、実際にはなかなか放出するところがないのも事実です。
なかなか話す気にはなれません。
それに、話す相手がいなくなったからこそ、実は悪循環に入り込んでしまったのですから。
伴侶とは、自らの心を開いてくれる存在なのです。
その存在がなくなってしまうと、次第に心は閉じがちです。
私はそうならないように、この挽歌を書き続けているのかもしれません。
でもたまには、口を使って、声に出したい気もします。
声に出したい人が、もしいたら、湯島に遊びに来てください。
心を閉じてはいけません
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