■節子への挽歌580:ソクラテスの妻
節子
箱根の帰りにまた湯河原によりました。
節子がいなくなっても、湯河原の街は何も変わりがありません。
将来の住人を湯河原は一組失ってしまいましたが、そんなことなど街にとっては小さな事件なのでしょう。
窓から節子が好きだった山並みを見ながら、ソクラテスを思い出しました。
いささか唐突なのですが、こういう話です。
もし節子と会うことがなかったら私はどうなっていただろうか。
おそらくかなり違った人生になっていたでしょう。
節子がいなくなってから私は昔のような読書家になりました。
昔は毎月数十冊の本を読んでいました。
読むといっても流す程度のものもありますから、実際に読むのはせいぜい10冊くらいでしたが。
本だけではなく雑誌もかなり講読していました。
しかし、次第に雑誌は読まなくなり、本も読まなくなりました。
本ばかり読んでいる私を節子は好きではありませんでした。
だからというわけではないのですが、本を読むよりも節子と話したり、節子と行動することのほうが、刺激の多いことを学んだのです。
節子が見抜いたように、私は「文系」でした。
議論と思索が好きでした。
節子と旅行に行って、節子が風景に感激しているのに、隣で「この風景を見て、どういう意味があるのかなあ」と節子に言って、よく怒られました。
実は感激すると、ついついそういう思いが私には出てくるのです。
よくいえば、感動するのはなぜだろうかなどと論理思考が作動してしまうのです。
節子はせっかくの雰囲気が壊されると、時々は本気で怒りました。
私は迷惑で無粋な「哲学者」だったのです、
もし、節子がソクラテスの妻のように、私に厳しい「悪妻」だったら、きっと私はソクラテスのような哲学者になっていたかもしれません。
逆に節子が「賢妻」だったらどうだったでしょうか。
山内一豊のように、今ごろは社会的に成功して有名な資産家になっていたかもしれません。
しかし、いつか書いたように、節子はへそくりもできない人でしたから、資産家にならずにすみました。
悪妻でも賢妻でもなく、節子は何だったのでしょうか。
少なくとも「良妻」でもありませんでした。
良妻だったら、私を置いては逝かないでしょう。
中途半端に置いていかれてしまった私として、いまさら山内一豊にもソクラテスにもなれずに、困っています。
さて、余生をどうしましょうか。
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