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2009/04/17

■節子への挽歌593:「愛こそすべて」の幻想

節子
ヘーゲルの入門解説書「人間の未来」を読んでいたら、こんな文章に行き当たりました。

恋愛とは、絶対の一体化だという幻想的な情熱と、男女は結局別々の人間だという自覚との行ったり来たりであり、結局のところ、「愛こそすべて」という「幻想」は過酷な現実の前に挫折することになる。
ヘーゲルは、若者が求める人生の目標の一つとして「快楽と必然性」をあげているのですが、入門書の著者の竹井さんは、それを「恋愛のほんとう」と呼び換えて説明してくれています。
そして、こういうのです。
「恋愛のほんとう」が「自己意識の自由」に対してもつ優位は、それが自己関係ではなく「相互関係」をもち、しかもある場合は、これをつかめば他の一切を失ってもよいという生の絶対感情をもたらすほどの「ほんとう」として現れる点にある。
つまり、恋愛を通して、若者は自分の世界から抜け出し、自由を開いていくのです。
これは私にはとても納得できる話です。

しかし、「恋愛のほんとう」は、たいていは挫折する運命を持つ、とヘーゲルは続けます。

2人が恋愛の道行きの途上で見るのは厳しい現実(必然性)であり、ここには絶対的な「ほんとう」が存在しなかったことを知る。
恋愛は、自らの閉じられた世界を超えたとしても、所詮は二者間の承認関係でしかなく、社会的な普遍性の広がりを欠くからです。
こういうと難しいですが、要は、恋愛が創出する世界は自分の世界の延長でしかなく、価値観の複数性は体験できますが、多様性を体験できないために、結局は自分中心の世界に陥って破綻してしまうということでしょう。
これもとても納得できます。

そして、若者は「正義のほんとう」へと目標を変えていくとヘーゲルはいうのです。
それもまた挫折していくというのですが、この部分だけでヘーゲルの人間性と人生を推察すると、なにやら親しみさえ感じます。
もしかしたら、だからこそあれほど難解そうな哲学体系を打ち立てたのかもしれません。

自分の問題として考えると、ヘーゲル流に言うと、私はいまな迷える青年期から抜け出られないでいるのかもしれません。
私の場合は、こうです。
「恋愛のほんとう」に関しては、ヘーゲル(竹井さん)の言うとおり、「他の一切を失ってもよいという生の絶対感情」を体験しました。
その一方で、「でも結局別々の人間だ」という思いも何回も持ちました。
節子とは、こういう話を何回もしました。
節子も私とほぼ同じでした。
そして節子も私も挫折することはありませんでした。
心を開いた話し合いを重ねたからです。

では社会的な広がりにまで行かなかったかといえば、むしろ逆でした。
相手を愛する「恋愛のほんとう」が確信できれば、その対象は広がるのです。
いささか大げさに聞こえるかもしれませんが、私たちの愛の対象は、お互いを超えて広がって言ったように思います。
そういう視点から考えると、「正義」などは虚しい言葉です。

もしヘーゲルが、私にとっての節子のような存在に出会えたら、ヘーゲル哲学は違ったものになり、世界の歴史は変わっていたかもしれません。
ソクラテスも、そうでした。
伴侶の存在は大きいのです。

ヘーゲルは、どんな「恋愛」を体験したのでしょうか。
そう思いながら哲学を学ぶと、面白くなってくるかもしれません。

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