■節子への挽歌591:薄れるものでも乗り越えるものでもなく、深くなり、日常になる思い
先日、お花見に誘っていただいた武井さん からメールが来ました。
武井さんはおそらくこの挽歌を読んでいないですから、こっそり引用します。
最愛の人を失って1年半のお気持ちはいかばかりかと拝察いたし、やっぱり佐藤さんはエライんだ、と改めて感激しました。はい
喪失感は、どんなに総明、賢明な人でも、太刀打ちできるものではなく、時間の中に心を委ねるしかありませんものね。
ただひとつ、失った場合に言えることは、愛する人がゆっくりと心奥に、新たに育まれ、最も好ましい姿で宿ってくれます。
そして、生ある限り、励まし、いたわり、和ませてくれ、「共に生きていける」、ということです。
「生きる」ということは、ある意味ではシンプルですが、ある意味では、とても深くて複雑、難解。
佐藤さんには、釈迦に説法ですが、しかし、改めて、言われてみると、案外、新鮮に思えるときがありますから、わたくしが教えてあげます(笑)。
新鮮でした。
それに、他の人から言われると安堵します。
実はこのメールをいただいた前日に、挽歌の読者の田淵さんが同じ主旨のコメントをくれました。
多分こういう思いは薄れるものでもなく、乗り越えるものでもなく、武井さんがいうように、まさに「時間の中に心を委ねる」ということでしょうね。
深くなり、それが日常になるのでしょうか。。。
最近は悲しみも自分の一部になりつつあり、とても主人を近くに感じます。
田渕さんのコメントを読みながら、武井さんもまた「愛する人を見送った」立場からのアドバイスなのだと、改めて気がつきました。
作家の想像力ではなく、体験の言葉なのです。
武井さんの人生は、それなりにお聞きはしていましたが、知っているのと感ずるのとでは全く違います。
田淵さんのコメントも、深いところで理解できたような気がします。
この頃、いろんな人からメールや電話をもらいます。
そうした言葉が、心に深くしみてきます。
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