■節子への挽歌596:この挽歌は誰が書いているのか
この挽歌で紹介した「あなたにあえてよかった」の著者の大浦さんは、この挽歌を読んでくださっているのでが、時々、メールやコメントをくれます。
先日のメールの最後に、こんなことが書かれていました。
ところで「挽歌」は、間違いなく「作者は節子さん」だと私は思っています。「共作」というのが普通なのですが、大浦さんは節子が書いていると言い切ります。
佐藤さんはお気づきになっていないでしょうが。
それは、大浦さんの体験からのようです。
「あなたにあえてよかった」も、納得しました。
著者を「大浦郁代」にしたかったくらい、郁代が私を動かして書かせたのです。
しかし、私の場合は、たぶん節子が書いているのではないのです。
私が書いています。
ただ、何回も書いているように、私の半分は節子なのですから、まああまりこだわることもないのですが。
挽歌はもちろんですが、実は時評編のほうも、節子の思いがかなり強く出ているような気がします。
40年も生活を共にしていると、どちらが自分でどちらが節子か、あんまり区別がなくなってしまうのです。
それが、ある日、その伴侶がいなくなる。
信じられないことなのです。
まさに半身がそがれた気分。
人間は環境との相互関係の中で、考え行動しています。
その一番の支えだった伴侶が不在になると心身が動けなくなるのは当然のことです。
私はそうした環境の変化に慣れるまで1年はかかりました。
いや慣れるというよりも、心身が動けるようになるまで1年といったほうがいいでしょう。
しかも疲労感が大きいのです。
ところが不思議なのですが、挽歌を書いている時には疲労感がないのです。
パソコンに向かうと自然と指が動き出します。
だから大浦さんが言うように、「節子が書いている」といえないこともないのですが、そうではなく節子と会話しているような感じが戻ってきて自然と指が動きだすのです。
内容はいろいろですが、共通しているのは、話し手はいつも節子なのです。
大浦さん
もしかしたら、それが親子と夫婦の違いかもしれません。
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コメント
「作者論争」へのお返事ありがとうございます。
これほどの期間、毎日佐藤さんに「挽歌」を書き続けさせた
節子さんの存在は偉大というしかありません。
節子さんに感嘆!の気持ちを、とりあえずあのような表現で・・・。
まあ、ふたりとも・・・と節子さんは新緑に囲まれ、微笑んでいらっしゃるでしょうね。
大浦静子
投稿: 大浦静子 | 2009/04/20 14:40
大浦さん
ありがとうございます。
>これほどの期間、毎日佐藤さんに「挽歌」を書き続けさせた
節子さんの存在は偉大というしかありません。
40年、私に付き合った節子に比べれば、まあたいしたことはありません。
たぶん私と付き合うのは大変だったと思います。
その罪滅ぼしなのです。
投稿: 佐藤修 | 2009/04/23 22:35