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2009/04/16

■節子への挽歌592:「やっぱ、自分自身がそうしたかったとよね」

節子
福岡の西川さんからもメールをもらいました。
先日の挽歌588を読んでの励ましメールです。

私は、「人は、自分が望むようにしか生きることができない」
又は、「人は、自分が望むように生きる」と思っています。
又は、結局それは「自分自身が望んだことなのだ」と。

私は、自分に合った生き方をすることで、
たくさんの人を巻き添えにし、辛い思いもさせたと思っています。
そのために、私自身も傷を負ったということも。

でも、やはり、それもこれも、それぞれが、
「自分が望んだこと」だったのだと思うのです。
そして、だからこそ、人は幸せになる可能性もあると…。

根っからこういう楽天家(?)だったわけではありませんが、
でもみんな、「やっぱ、自分自身がそうしたかったとよね」と。
西川さんは、私が書いた
>節子を、無理やり私の生き方に合わさせていたことはないでしょうか。
>時々、思い出しては、少しだけ後悔することもあります。
>どう考えても、私たちの生き方は、私寄りでした。
>節子は、楽しんでくれたでしょうか。
という愚問に対して、
「楽しんでいたに決まっているでしょう」
と元気づけてくれたのです。
西川さんは、昨日の武井さんと違って、この挽歌を読んでくださっていますが、きっとよろよろしている私が心配なのでしょうね。
すみません。

節子もきっと、この西川さんの言葉に共感するでしょう。
「私たちの生き方は、私寄りでした」などと勝手に言わないでよ、と節子は笑っているかもしれません。

「人は、自分が望むように生きる」
節子はたしかに、自分をしっかりと生きました。
そして、人生を楽しんでいました。
「節子は、楽しんでくれたでしょうか」などと言うのは愚問ですね。
後悔などして損をしました。

節子が、周囲の反対を押し切って、私を人生の伴侶に選んだのは、
「やっぱ、自分自身がそうしたかったとよね」なのでしょうね。
喜怒哀楽、すべては自分が引き寄せるものなのですよね。

とわかってはいるのですが、
節子はもっともっと人生を楽しめたはずなのに、それをかなえてやれなかったことの、罪の意識はどうしても消せません。
裏返せば、節子と一緒に人生をもっと楽しめたはずなのにという、自らの未練なのかもしれません。
私自身の自業自得なのでしょうね。

西川さん
せっかくのエールに、素直に反応できずにすみません。

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妻への挽歌03」カテゴリの記事

コメント

宮内です

節子はもっともっと人生を楽しめたはずなのに、それをかなえてやれなかったことの、罪の意識はどうしても消せません。
裏返せば、節子と一緒に人生をもっと楽しめたはずなのにという、自らの未練なのかもしれません。

非常に考えさせられます

ふと 思いました
節子さんは 華美な花だけ好きだったのでしょうか?
たぶん 野や道ばたに咲く小さな花や 野菜の花だって、慈しみ、愛でたのではないでしょうか

素朴や質素だからといって 幸せではないかというと そうではなく
きっと 節子なんには それらが輝いて見える目をお持ちだったのではないかと
推測します。

もっと長くお二人の暮らしが続いて欲しかったですが
生前 節子さんは 「好きな人がそばにいる」
ただそれだけで ただそれだけで 心が溢れるくらい幸せだったと

私は思います

プライベートな問題を 勝手に述べてすみません

ギタリスト

投稿: 宮内 俊郎 | 2009/04/16 19:26

宮内さん
ありがとうございます。

妻は、野草や山花も好きでした。
山に行くと実生の芽をよく探していました。
もちろん野菜の花も大好きでした。

華美よりも質素が、私たち夫婦には似合っていましたし。

投稿: 佐藤修 | 2009/04/16 20:26

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