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2009/04/23

■節子への挽歌599:遍在転生の死生観

節子
今週の土曜日に、東尋坊の茂さんたちと「自殺ストップ!緊急集会」を開催します。
その準備でいささか最近疲れ気味なのですが、このプロジェクトへは節子の誘い(いざない)があるような気がしています。
いろいろとそう思う節があるのです。

私の性癖は、どんなことでも単に事務的には関われないことですが、今回もいろいろと考えることが多いのです。
それで精神的に疲れてしまうのですが、先日、茂さんから「ストレスチェック」のカードをもらいました。
ある部分を指で押していると変色するのですが、その変色度合いを見て、ストレス度がわかるのです。
それでやってみたら、なんと「要注意」を越して「ストレス有り」の段階でした。
たしかに最近疲労とストレスがたまっているようです。
ストレスはすべて節子に解消してもらっていた頃は、いつも元気だったのですが。

まあそんなわけで、今日は脳疲労もちょっと起こしています。
資料づくりの合間に節子のお墓参りに、いま行ってきたのですが、まだ頭がすっきりしません。
困ったものです。

それで今日の挽歌は、いささか難しい話です。
遍在転生論というのがあります。
この世界における過去・現在・未来を通じたありとあらゆる自己意識を持つ主体は、唯一の「私」が転生したものに他ならないのだ、という考え方です。
ユングの集合的無意識の考えに通じますし、いつか書いたような気もしますが、心のマルチネットワークの考えにも通じています。
いや、そういうものをつなげていくと、結局、この宇宙には「一人の私」しかいないということになるのです。

先日も、「死は存在しない」というようなことを書きましたが、遍在転生論の立場ではもちろん「死」などは瑣末な話です。
「生」そのものが一時のアワのようなものなのですから。
節子がいたら、この話を図解しながら私は得意気に話し、節子は真剣に聴いてくれているようで「またか」と受け流していることでしょう。

実は、節子がいなくなってから、遍在転生論も捨てたものではないなと思うこともあります。
しかし、真面目すぎるほど真面目に生きていた節子は、多分受け容れないでしょうね。
「死」は決して「瑣末なこと」ではないと怒るでしょう。
瑣末なことではないからこそ、瑣末なことなのだ、という私の論理は節子には受け容れられないでしょう。
受け容れられなくても、受け容れてくれた節子が、今こそ居て欲しいですが、それも適わぬことです。

何だか支離滅裂ですが、私の中では極めて論理的なのです。
わかってもらえないでしょうね。
超論的な節子なら、わかってもらえるのですが。

節子も知っていた清水由貴子さんが父上の墓前で自殺しました。
やりきれない話です。
「自殺」をテーマに関わっていく自信が、実はちょっと萎えています。
私には向いていないのかもしれません。
しかし動き出してしまいました。

節子に助けて欲しいです。
お墓に向かって、そう願ってきました。
清水さんのテレビを見ると、悲しさがこみ上げてきます。
どうも感情移入が大きすぎます。
やはり遍在転生している結果でしょうか。

やはり今日の挽歌は支離滅裂ですね。
すみません。

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