■節子への挽歌579:景色は私たちの外部にではなく、私たちの心の中にある
節子
また箱根に来ています。
いつものように、企業の経営幹部の人たちの合宿に参加しています。
あれほど好きだった箱根も、最近は何となく来るのが気が重いのです。
節子がいなくなってから何回も来ましたが、いつも用事が終わるとそのまま帰っています。
今日も強羅ですが、芦ノ湖まで足をのばす気にはなりません。
桜が各地で開花しだしていますが、桜の花も含めて、そうした華やかなものを見ると、逆に気分が沈んでしまいます。
こうした状況からいつになったら抜け出せるのでしょうか。
これは多分に考え方次第です。
その気になれば、たぶん今にでも抜けられそうです。
私の人生を「悲劇仕立て」ではなく「喜劇仕立て」にすれば、きっと見えてくる風景の意味も違ってくるのでしょう。
人を元気にする風景が、人を沈ませる風景になる。
このことに気づくと、これまたいろいろなことが見えてきます。
日本には自殺多発現場といわれるところがあります。
いわゆる「自殺の名所」です。
東尋坊が有名です。
しかし、自殺を誘発する場所はまた、生命に元気を与える場所でもあります。
節子の再発が明らかになる直前に、私たちは東尋坊に一緒に行きました。
節子も私も、その美しさに元気をもらいました。
しかし、もしかしたら、今、私が一人で東尋坊に行ったらどうでしょうか。
景色は私たちの外部にあるのではなく、私たちの心の中にあるのです。
節子がいなくなってから、そのことを知りました。
ですから、もはや私には昔のような「観光」という概念がなくなってしまいました。
どんなに美しい風景も、節子がいない今、私には退屈な風景でしかありません。
蛇足ですが、「観光」ということの意味が最近やっとわかってきました。
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