■暴力と権力
タイでの反政府デモなどの騒ぎを見ていて思いだすのはアレントの言葉です。
「力は権力を破壊することはできるが、権力を創造することはまったくできない」
タイでの内争に関しては、何が問題なのかもよく理解しておらず、私にはその評価は全くできないのですが、同じ国民同士がここまで争わなければならないことへの悲しさと、その一方で、ここまで動けるほどの生きた社会があることへのうらやましさを感じます。
日本では、首相と政府が好き勝手にやっても、せいぜい国会周辺のデモ行進くらいなのです。
1960年代の日本には、まだいまのタイのようなエネルギーがありました。
半世紀たって、日本も成熟したのでしょうか、あるいは息の根を止められたのでしょうか。
アレントを持ち出すまでもなく、暴力と権力は全く違うものです。
アレントは、権力と暴力に関して、「一方が絶対的に支配するところでは、他方は不在である」と書いています。
おそらく、いまの北朝鮮には暴力はなく、フセイン政府下のイラクには暴力はなかったでしょう。
権力は、暴力を秩序化し、管理下におくとともに、暴力を権力維持のための効果的な手段に変えていきます。
そこでは暴力は見えないものになり、正当化され、発動せずとも暴力の目的を発揮できるようになるわけです。
逆に言えば、依然、死傷者が少なくならないイラクやアフガンは、権力がまだ確立できていないということです。
つまり、アメリカや日本による暴力行為やその支援行為は、権力を確立するものではなく、所詮は暴力のレベルでしかなかったといえるでしょう。
それは当然のことで、そこに生活の基盤を置かない「よそ者」や第三者が、納得させられる権力など樹立できるはずがないのです。
しかし、残念ながら、暴力の行く末には権力も平和もないのです。
タイの騒乱は、いろいろなことを考えさせてくれます。
しかし、もはや「暴力で権力を消し去る時代」は終わったような気がします。
そう思うのは、私が、年取ったせいでしょうか。
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コメント
絶対的な権力者の国は権力者と、自由を捨てたゾンビのような国民で構成されているように思われるのですが。
人々は虚勢され、かんりされ、暴力は起こらないでしょう。
「暴力で権力を消し去る時代」は終わったと言われますが、権力に対抗出来るのは何でしょう。対話でしょうか、ペンでしょうか?昔から「ペンは剣より強し」と言いますが。
投稿: maron | 2009/04/14 23:53
maronさん
権力に対抗出来るのは何かですが、
ガンジーの非暴力はひとつの方法だと思います。
私の周りにも、アヒンサー主義者もいますが、その行動力には敬意をもちます。
私の意見と実践はこうです。
表情ある人のつながりが育っていけば、自然と権力は無意味化し、気持ちよく暮らせる社会が実現する。
まあ、少なくとも50年はかかるでしょうが、自らの周りにそれを育てていければ、みずからはきっと納得できる人生を送れるだろうと思っています。
その思いで、コムケア活動をはじめました。
私のホームページからも、そのホームページにとべます。
コムケアはメーリングリストもあります。
竹田青嗣さんが、最近のちくま新書「人間の未来」で書いていますが、「自由の相互承認」にもとづく「普遍ルール社会」という概念があります。
この考えにかなり近いのですが、私のはむしろ「話し合いによる相互支援社会」の積み重ねというイメージです。
ささやかなレベルですが、子どもの頃から、一応はそういうスタンスで生きてきています。
一時期、会社の面白さに引きずり込まれましたが、21年前に会社社会を離脱し、原点に戻ろうとしています。
そのころ、「対話の時代」というのを書きましたが(ホームページにたぶんのっています)、いまはむしろ「対話」よりも「会話」が私の考えに近いかもしれません。
投稿: 佐藤修 | 2009/04/15 08:52