■節子への挽歌603:床屋の井戸
「王様の耳はロバの耳」という話をご存知でしょうか。
子どもの頃、イソップ物語で読みましたが、最近はむしろ寺山修司のミュージカルの方が有名でしょう。
王様がロバの耳をしていることを知っているのに口止めされている床屋が、黙っていることに耐えかねて、井戸の奥に向かって「王様はロバの耳」と大声を出して叫ぶという話です。
まあ、その前後に面白い話があるわけですが、人間は誰にも言えないことを心に溜め込んでしまうことはできないのです。
ですから、誰かにその話を聴いてもらいたいわけです。
まあ、このブログは、私にとっての「床屋の井戸」のようなものですが、ここには書けないこともたくさんあります。
節子がいた40年間は、節子が私の愚痴から何まですべての聞き役になっていましたから、私はストレスがあまりたまらなかったのです。
しかし最近は、どうもストレスがたまります。
最近、どうも溜まりに溜まっているようで、昨日、実はついに爆発してしまいました。
いわゆる「八つ当たり」ですが、昨日、会った数十人の人たちにいささか恥を残してしまいました。
困ったものです。
それにしても、社会的な常識が欠落している人が多すぎます。
だいたいにおいて社会的に立派な肩書きを持っている人には、まともな常識を持っている人はあまりいません。
肩書きなど、名刺なども持たず、誠実に汗している人たちはこれまたほとんど例外なく常識をしっかりと身につけていますので、付き合っていて気持ちが和らぎます。
肩書きで生きている人は、誠実に生きなくても生きていけるのでしょう。
腹立たしいほどに常識がありません。
あまり書くと問題が起こりかねませんが、まともな挨拶もできない教育者や社会性などない社会活動家が、何と多いことか。
言葉だけ見事に対応しながら、約束を履行もしない人も嫌になるほど多いです。
こう書いてくると、待てよ、これは自分のことではないかとも思いますが、自分のことは棚にあげて、他人のことが気になります。
これがまた、名刺など持っている人の共通点なのですが。
いずれにしろ、不快なことが鬱積してしまっていたので、今日はいろいろと恥ずべき言動をしてしまいました。
もちろん発散してしまった相手と鬱積させた相手とは、必ずしも重なっていないのですが。
節子は、そうした私のダメさ加減やこらえ性のなさを知っていましたから、溜まっているとわかると抜いてくれましたし、また危ない時には、今日は冷静に話して来なさいよと注意してくれました。
まあそうした注意がいつも役に立つわけではないのですが、それで一見、「温厚で物分りのいい佐藤さん」が維持できることも少なくありませんでした。
その節子がいなくなった今、鬱積した思いはどこにはかせたらいいのでしょうか。
もしかしたら、伴侶の最大の役割は、床屋の井戸役なのかもしれません。
鬱積していたストレスを発散してしまった後味の悪さで、今日はストレスが倍増です。
不惑の年はもうとっくに過ぎていますが、人間はますます偏屈に偏狭になってきているような気もします。
節子の位牌を、私の「井戸」にしようかとも考えましたが、床屋の井戸は、その底から世界につながっているという落ちがあるので、やめておいた方がよさそうです。
なにしろ彼岸は、現世のすべてに繋がっているそうですので。
何かいい方法を見つけなければ、また誰かに八つ当たりしそうです。
節子
なにかいい知恵はないですか。
| 固定リンク
「妻への挽歌04」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌800:レインボーブリッジの夜景を見ながら思ったこと(2009.11.10)
- ■節子への挽歌799:脱余生考(2009.11.09)
- ■節子への挽歌798:節子の寝顔ももうありません(2009.11.08)
- ■節子への挽歌797:ラ・フランス(2009.11.07)
コメント